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正直な森

初めて白谷雲水峡に行きました。
縄文杉と並んで有名な観光ルートなので、訪れる人数はハンパ無く、山の中に入るとすれ違う人が街よりも数倍多い(笑)のが笑い話では無いように感じた。
なぜなら森が「疲れている」のを痛く感じ、それでも一生懸命に人々に癒しの気持ちを一心に注ぎ込んでいるように感じたからだ。
縄文杉の道でも感じたので気のせいでは無いと思う。

森は性質上、常に生命の方向に向いていて、疲れていたり傷ついている人が入ってくるとその人を取り囲んで治療を始める。
屋久島程の生命力溢れる森は、その力も無限のように感じられるが、山は広いといっても有限なように、底なしに思える力も、徐々にすり減ってくるようだ。

屋久島の森の大部分は、癒しを求めに来る人たちに生命力を分け与えすぎていて、自分自身を蘇生させる力を充分に持っていない。
瀕死の状態になりながら患者を治療する医師のように、見るも無惨な傷に自ら施しも出来ない。
人の数が減ったり、いっその事この先100年観光客は森に入らないとか、そういう事でもしない限りだんだんと弱る身体を酷使しながら、森は人々に力を注ぎ、ゆくゆくは死んで行くだろう。

せめて森に入る人が、森の事を想いながら道を歩くならば、自分が森に出来る事を考えながら、そしてそのアイディアを実行しながら生きて行けるならば、森は死なないだろう。

森だけでなく、自然界の全ては相互に関係し合っているから、お互いがお互いの役に立つような関係性に戻って行く事が、自然に沿って行くと言うものだろう。

自然はいつも正直で、はっきりしている。
人は正直に生きる事を始める所から、真実の人間への門が開かれるように思う。
正直になるには限りが無く、自分や他人にウソを付かないなどという初歩的な準備期間を過ぎてからが、やっと正直の入り口に立つようなものだと思う。

正直な自分を見つめるという事は、身体と心と魂がばらばらに動いている自分を「ひとつ」に持って行くと言う事でもあり、自然の流れに同調しているという事にもなると思う。

自分自身がひとつにならない限り、自分以外のものも決してひとつにはならないだろうから、
だから私は、この正直になるという決意が、どんな知識や哲学や信仰をも凌駕する、本当のベーシックな姿勢なのだと感じている。

正直さに欠ける人物がいくら素晴らしい言葉を話しても、どんな知識を持っていても、空しく虚空に消えて行く幻をせっせと作っているようなものだろう。

そんな事を思いながら白谷雲水峡を歩いていました。

屋久島に来てから2ヶ月。
それまで見えていたものとは全然べつのものが、全然思いもよらなかったものが、見えて来たこのごろです。
by prema-maaru | 2009-06-02 08:24