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ホト

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絵を描く友達とお茶を飲みながらとりとめのない話をしました。

やはり「絵を描く」という共通の関心を持つ者同士で、世間話をしながらも要所は「いかに描くか」というヒントに繋がる時間でした。
その方は良く観察をする人で、紫陽花なら紫陽花をじっくり観て描くのですが、ボクの場合はそういう事はほとんど無く、ただ紫陽花から受ける印象を描くのです。
でもそれは手法が違うだけで本当は同じものを「描きたい」と考えています。

ボクにとってはその花のように見えるモノが「紫陽花」と呼ばれていようが関係なく、どんな習性や育ち方をするかも関心が無く、ただその「花の様なモノ」がどういう「影」なのか?に関心があるのです。

つまりこの目に捕えられるモノはすべからず「原因」がある訳で、それがどういう意味を持つモノなのか?という視座が好きなのです。

ただこれが唯一正しい訳では無く、人間が長い観察の歴史の中でそのモノを理解して分類して来たという「重さ」を大切にするのも、同じ様にその花に対する「畏怖(リスペクト)」であると思っています。

この世界に表れているものは全て「影(結果)」と言えます、ではその「原因(光)」はどこかと言えば、それは目に見える光では無く、目には見えない所(比喩的に言えば後方)から射す光だと言えます。
(*つまり前方(目の前)には決して見えない、どこに目を向けてもその光を直に見る事は出来ません。)

私たちがその光を見られる事は稀で、その光は言うなれば「死の世界」から投射されているものなので、この世界には「影」としてしか見る事が出来ないのです。

死ぬ様な経験をした人や、いわゆる「自我の崩壊」を経た人が一瞥(いちべつ)する事はあっても、生きている限り見続ける事が出来ない光なのです。

その「見えない光」がこの世界の空間に投射されて見える紫陽花は、本当はナニモノなのか?を描きたいと言う野望を持つのです。

結果から原因を探る旅を「人生」と呼ぶ様に思いますし、それを共有する事を「創作(捜索)」というジャンルに託しているようにも思えます。

「みえない光」の正体は?

答えを言ってしまえば「あなた」であり「わたし」であるという解答は分かっています。
ただそれを実感出来るのかどうか?が大切なのではないでしょうか?
誰かがそう言っていたよ。。という事で満足してしまうのだったら、それは「生きていない」と言う事かも知れません。

かくして「見る」という行為は、それ自体が「光」であると言えます。
なぜなら私たちが生命として生きていなければ決して「見る」事が出来ないからです。
*見るは「観る」ですから視力はあまり関係がありません。

「見えない光が自らの影を影絵として見ている」のがこの世界だと言えます。

ですから、たかが紫陽花ひとつでも確(しか)と見るならば、それは「本当の自分」を観ることなのです。

絵を描くと言う行為はそれをごく自然に、何事も無かったかの様に行う離れ業です。
ここにこそ「人で在る神」の一面が現れているのだと思います。

まだ何も知らない幼児が「あ〜あ〜」と声を発する様に、手元にあったクレヨンでひたすら「◯」を描く様に、「光」そのものであるわたしが自らの姿(生命)を確かめる事。

それが「描く」という事なのだと、ボクは思っています。






よわいちから 金星 in 名古屋
2012.4/5~4/15 トライバルアーツ


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by prema-maaru | 2012-03-25 06:01