TOTEMの全容

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(はじめに)

毎年11月にカフェスローで個展を開催させていただいています。
私にとってカフェスローの個展はその年の締めくくりを意味しています。
ただ今回はもう少し大きな周期の締めくくりだと思いながら、これらの絵を描きました。

2011年3月11日のあの日から、私はどう生きて行こうかと、丸三日間心の中を見つめて過ごしました。
とうとう出た答えが「絵を描く」というものでした。
ずっと絵を描いて来た事の延長では無く、新たな「絵」を描く、という事です。
あの日から始まったのは「今日が人生の最期だと覚悟して生きる」という事です。
展示作品の最期に描いた「memento mori」はラテン語で「死を忘れるな」の意味合いです。

でも実は「死を忘れずに生きる」事は、暗く重くなる訳では無く、一瞬一瞬を丁寧に正直に生きる事でもありました。
「一期一会」と同じ意味であり、過去や未来に囚われず「今ここ」を見つめる姿勢です。
そういう意味で3.11という日は、多くの人に絶望を与えたけれど、同時に大きな可能性を記してくれた日だと思います。
「自分の枠」という限界を超える可能性という意味です。

それから私は怒濤の如く絵を描き、全国各地で個展を開催しました。
振り返る隙間を入れないで溢れ出す生命力を掛け流しにしていた様な感覚です。
気がついたら随分と安らかな景色が観えました。
気がついたら「自分の枠」が以前より少し広がっているのに気づきました。
ずっと必死にやっていたのでそれらはずっと観えて居なかったのです。

それを自覚したのが2014年の始め頃です。
私は徐々に減速して行き、これからは「目の前の一枚」に全ての力を掛けようという気持ちになりました。
この一枚の絵の中に生命力全てを投影しようと決めました。
そうしてようやく描けた8枚がこれらの作品です。

これらの絵は「生まれる前の世界であり死んだ後の世界」から産まれました。
全ての生命の原風景を思い出しながら描きました。
それは「私」が「私たち」である場所から、時空をいだきながら歌う子守唄です。

どうぞじっくりとご観覧下さい。
ありがとうございます。

2014.11月
マシマタケシ







作品は入り口から順に。

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anima 728x1030mm

どころどころに生命があるのではなく
生命の中に全ての生き物が暮らしている
けものたちは皆それを知っている
それを思い出すためには
あなたの中に住むけものを起こせばいい
かんたんだ
それを人は 愛 と呼ぶ


アニマ(anima)とは、ラテン語で、生命や魂を指す語である[1]。古代ギリシア語の文献類(アリストテレスの書など)にある「希:(プシュケー)」というギリシア語を、中世ヨーロッパなどにおいてラテン語に翻訳する時には「anima」という語があてられた。当時ヨーロッパはキリスト教世界であったので、古代ギリシアの哲学の影響を受けつつも古代ギリシア文献の翻訳・研究などの文脈以外では、animaはキリスト教的な色彩を帯びた用法で使われていることも多い。その後、近代になってユングが独特の用語として用いることになった。
wikipediaより引用

*販売済み









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aun728x1030mm   販売済み

眼に見えない空間には 眼には見えないものが充満している
たとえ何光年離れていても 光よりも早くそれは伝わっている
左足の小指が痒い事を すぐに知る様なものだ
隠されたものはない ただ 見えないのだ


阿吽(あうん、Skt:A - hum)は仏教の呪文(真言)の1つ。悉曇文字(梵字)において、阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされた。また、宇宙のほかにも、前者を真実や求道心に、後者を智慧や涅槃にたとえる場合もある。次いで、対となる物を表す用語としても使用された。特に狛犬や仁王、沖縄のシーサーなど、一対で存在する宗教的な像のモチーフとされた。口が開いている方を阿形(あぎょう)、閉じている方を吽形(うんぎょう)と言う。転じて、2人の人物が呼吸まで合わせるように共に行動しているさまを阿吽の呼吸、阿吽の仲などと呼ぶ。
wikipediaより引用









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eden 728x1030mm

エデンの園はどこにあるのだろう
それは 女の人のお腹の中にあるのです
アダムという名のあなたが受胎したときに
イヴという名の胎盤(えな)が生まれ
双子のようにエデンの園で暮らして来た
失楽園は祝福なのです
それを人は 誕生の日 と呼ぶのだから


エデンの園(エデンのその、Garden of Eden、 ラテン文字転写: Gan Eden)は、旧約聖書の『創世記』(2:8-3:24)に登場する理想郷の名。楽園の代名詞になっている。パラダイスとも言う(ラテン語: paradisus)。地上の楽園とも言う。『創世記』の記述によればエデンの園は「東の方」 (2:8) にあり、アダムとイヴはそこにおかれ、そして、食用果実の木が、園の中央には生命の樹と知恵の樹が植えられた。また、エデンから流れ出た1つの川は園を潤し、そこから4つの川(良質の金とブドラフと縞メノウがあったハビラ全土を流れるピション川、クシュの全土を流れるギホン川、アシュルの東を流れるヒデケル川(チグリス川)、ユーフラテス川)に分かれていた。ヤハウェ・エロヒム(エールの複数形、主なる神と訳される)はアダムとイヴが禁じられていた知恵の樹の実(禁断の果実)を食べたことから「人はわれわれのひとりのようになり」、その後、生命の樹の実をも食べ永遠に生きることをおそれ、エデンの園を追放する(失楽園)。生命の樹を守るため、ヤハウェ・エロヒムはエデンの東にケルビムときらめいて回転する炎の剣をおいた。
wikipediaより引用


*販売済み






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TOTEM 728x1030mm 販売済み

わたしの身体の中には 宇宙が満ちあふれている
太陽は心臓 血管は植物たち 細胞は虫たち 内臓は動物たち 魂を鳥に乗せて羽ばたいている
ゆっくりと廻りながら 銀河と呼ばれる故郷にもどる



トーテム(TOTEM) 日本の神道を含めた自然崇拝の信仰形態において、部族や血縁に対し、生きる縁を与えるものとしてLife・Index あるいはLife・Tokenと呼ばれる、「自分と似たようなもの」が祝福あるいは生命力を与えると考えられた。彼らは、部族ごとに石、光線、動物、植物とさまざまな形で表され、異なる世界から来るマナを、共有していると考えられた。また、説明体系として「われわれは○○の子孫である」というものがあるため、ハレの日にその動物を食べる、逆に食べない、といったタブーが存在する。 南方熊楠によれば、起源は諸説あるものの、a説 - 人が、ある種の動植物に似た特徴を持つためにあだ名のように言われたから。b説 - 古代、性行為によって子はできず、聖母マリアが天主ヤハウェによってイエスを生んだように、ある種の介在物が子を作ると考えられ、それが族霊とされた。という妥当な説の、まずa説のような説明が発生し、後にb説と説明しなおされた、とする。20世紀におけるトーテムの重要な批判者に文化人類学者のレヴィ・ストロースがいる。レヴィ・ストロースは、これまで神秘主義的なまどろみとされていたトーテムを、一定の理論性を持った為政者による部族団結の装置と考えた。精神分析創設者のフロイトにはトーテムとタブーという論文がある。









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asura 728x1030mm      *販売済み

わたしたちの生命の力は、静かに大爆発を繰り返している
指一本触れただけで この宇宙が吹っ飛んでしまうほどの強大な力を秘めている
でも誰もそんなことを知らずに 静かに暮らしている


アスラ(asuras)とは、インド神話・バラモン教・ヒンドゥー教における神族または魔族の総称。ペルシャにおけるアフラ・マズダー。本来、『リグ・ヴェーダ』に見られるように、古代インドにおいてアスラは悪役的な要素はなく、デーヴァ神族の王インドラに敵対することもある天空神・司法神ヴァルナの眷属を指していたが、その暗黒的・呪術的な側面が次第に強調されるようになり、時代が下った古代インドではアスラを悪として扱うようになる。「アスラはア(a=非)・スラ(sura=生)である」という俗語源説もこの転回を支持するものだった。インド神話がバラモン教からヒンドゥー教へと発展し、シヴァ・ヴィシュヌが新しく主神となると、アスラはヴァルナの眷属という設定が薄くなる。そのうち、デーヴァ族に敵対する種族であれば何でもアスラと呼ばれるようになった。アスラが仏教に取り込まれそれが中国に伝わると、漢字を当てて「阿修羅」と表記されるようになった。また、中国において「阿」の文字が名の接頭辞(日本でいう「**ちゃん」、また一文字の女性名に添えられる「お」に該当する)と同じ表現であることからか、「修羅」とも呼ばれる。
wikipediaより引用








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竜王 728x1030mm  販売済み

眼を閉じればそこは竜王の国
私たちは誰でも毎晩その国に遊びに行く
そこで出合った見知らぬ人と 今日どこかで偶然に出合う
お互いそれには気づいていないけど 竜王は知っている


竜王(りゅうおう、龍王)は、中国の想像上の神獣である竜(龍)を人格化した神格、または、インドから漢訳仏典とともに漢字文化圏に伝わった蛇形の鬼類であるナーガやその王(ナーガラージャ)のこと。仏典に記されたインドの蛇形の精霊であるナーガは、竜または竜王と漢訳されて中国に伝わった。ナーガは仏教においては仏法を守護する異類である八部衆の一つとされた。『法華経』には釈迦の説法を聴いた八尊の竜王が登場し、これを総称して八大竜王という。密教では祈雨修法の本尊である請雨経曼荼羅に八大竜王が描かれている。
wikipediaより引用










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buddhi 728x1030mm

耳を澄まして眼をとじて 
呼吸と鼓動をたしかめる
ゆっくりと回転している地球の
その回転に身を委ねる
眼を開けると足下の小さな花が話しかけて来る
それは あなた だ


ブッディ(buddhi) インドのサーンキヤ学派の 25の原理の一つで,漢訳では覚と訳される。これは確認の作用を本質とするもので,精神的な作用のもととなるが,身体の中の一器官としての根源的思惟機能である。根本質料因の3つの構成要素の平衡状態が破れて展開して最初に生じるもので「大なるもの」 mahatとも呼ばれる。…その変容を〈開展(パリナーマpariṇāma)〉という。その結果まず根源的思惟機能ブッディbuddhi(〈覚〉)またはマハットmahat(〈大〉)が現れる。これは確認作用を本質とし,同じく三つの構成要素からなり,身体内部の一つの器官である。…
コトバンクより引用

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memento mori 728x1030mm

ろうそくに火を灯す
ろうに紛れたススが芯の周りを回り始める
まるで生きているみたいに ゆっくりと 一定のリズムを刻む
そのようなことが ここで起こっているのだ


メメント・モリ(羅: memento mori)は、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句。「死を記憶せよ」などと訳され、芸術作品のモチーフとして広く使われる。
古代ローマでは、「将軍が凱旋のパレードを行なった際に使われた」と伝えられる。将軍の後ろに立つ使用人は、「将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるかわからない」ということを思い起こさせる役目を担当していた。そこで、使用人は「メメント・モリ」と言うことによって、それを思い起こさせていた。
ただし、古代ではあまり広くは使われなかった。当時、「メメント・モリ」の趣旨は carpe diem(今を楽しめ)ということで、「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」というアドバイスであった。ホラティウスの詩には「Nunc est bibendum, nunc pede libero pulsanda tellus.」(今は飲むときだ、今は気ままに踊るときだ)とある。
この言葉は、その後のキリスト教世界で違った意味を持つようになった。天国、地獄、魂の救済が重要視されることにより、死が意識の前面に出てきたためである。キリスト教的な芸術作品において、「メメント・モリ」はほとんどこの文脈で使用されることになる。キリスト教の文脈では、「メメント・モリ」は nunc est bibendum とは反対の、かなり徳化された意味合いで使われるようになった。キリスト教徒にとっては、死への思いは現世での楽しみ・贅沢・手柄が空虚でむなしいものであることを強調するものであり、来世に思いをはせる誘引となった。
wikipediaより引用

*販売済み







TOTEMの全容を記します。
ご来場ありがとうございました。

心から感謝いたします。


2014年11月21日

マシマタケシ







壬生マシマタケシ美術館の催し 11/29と30

マシマタケシ美術館

マシマタケシのホームページ
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by prema-maaru | 2014-11-21 06:15 | Comments(1)
Commented by prema-maaru at 2014-11-24 09:05
コメント欄をしばらく休んでおりましたが、TOTEMを期に再開しました。
2015年は日々の絵の制作を軸に、「かおの絵」や「いのちを描くワークショップ」も津々浦々で展開して行きたいと思います。
お問い合わせ等、簡単なものでしたらコチラにお書き込み下さい。