絵の家

絵の場合、そしてそれが象徴性の高い絵の場合、どこが「完成」なのかを画家ははっきりと知っている。
それは未来に、その絵が完成した絵を観に行っているからだ。
しかしそれは眼で見るのとは違って、指先や肌の感触に近い。
だが指先や肌が眼では感じられない感触や温度や湿り気に敏感なのと同じ様に、そちらの方が「確か」なのだ。

そのプロセスを熟知した画家は、その観方を全てのものに当てはめる。
森の樹々、海の生き物、天気や人、出来事や情報。そしてもちろん「絵」
それらは一見「完成」されたように見えるが、つまり固定された事象のように観えるが、どこを取ってもプロセスでしか無い。
生き物はいつか土に還り、又再構成されて肉に、又もや別の生き物になる。
出来事はいつも大きな流れの文脈の一文だ。
結果の様に見えるそれは、いつも過程なのだ。

画家がそのプロセスをはっきりと意識した場合、その人は過去と今と未来を自由に行き来出来る乗りものに出会う。
身体や心には見る事が出来ない大きな時間をひとつの球に見る力を身につける。
魂は知っている、時間の無い時間を。
ただしそれが分っていれば。

ある画家の建てた家を見た。
それは正しくは彼女の絵だった。
その家は絵と同じ様に、真っ白いキャンバスに日々加筆される生きている絵だ。
彼女は亡くなってしまったが、その絵の家は日々加筆され続けていた。
庭の樹は枝を伸ばし、花は美しく咲き誇っていた。
家の中は彼女のものが散乱していたが、それも絵の過程だ。

私は人一人の大きさに目眩がした。
よく「人間それぞれが違う宇宙だ」とか言うが、そんなに軽いものじゃ無い。
そして本当の意味で死は無い。

顧みて、自分も多くの絵を描き、それが誰かの部屋に飾られて行く。
そこに結ばれる交流通信は、電話よりもインターネットよりも確かだ。
魂の時間を共有するのだ。
そういう凄みを彼女の居ない彼女の絵の家に感じた。

それが分っている人が、料理や家や子供や社会を創って行く事。
未来にそういう絵があった。
その絵を今世界は描いているのだ。





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by prema-maaru | 2017-06-14 18:38 | Comments(0)