2009年 09月 13日 ( 1 )

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庭のばんじろう(グアバ)の実がいろづき出して来た。
濃い緑の固い実が急に黄色に変わって来て、そうしたら2〜3日でポトリと地面に落ちる。
強い南国の香りを周囲に漂わせ、割ってみるときれいなピンク色になっていた。

この家の大家さんが、この家を貸してくれる時に、ここは海中温泉が近いのと、ばんじろうとバナナがあるのが最大のポイントです!!と力説していたのを思い出す。
屋久島ではこれらの果樹は比較的ポピュラーで、庭や畑の付いた家ならば世話のいらないこれらの果樹ならばどこにでも目にする事が出来る。
だからそう言われてもピンと来ていなかったが、今たわわに実ったばんじろうの実を毎日いただいていて、その有り難さが身に染みている。

ばんじろうは食べごろが1〜2日しか無く、だから生の実が流通に乗る事はほとんど無い。
しかし夏の終わりの疲れた身体に栄養たっぷりのビタミンCを多く含んだ実は屋久島のこの時期に欠かせないものでもあるのだ。

家にはばんじろうの樹が二本あり、今食べごろなのがレモンにそっくりの形をしたピンクの実で、もう少しすると柿のような形の白い実だ。
まだためしていないけど、それぞれ味が違うという事だ。

朝起きるとばんじろうの実が地面に落ちているのを拾うのが日課になっている。
鳥がついばんだりカニがほじったりしていない実を少しいただいて、その日の収穫にさせてもらっている。

こうして毎日ばんじろうを眺めて気持ちを通わせていると不思議な事に、私が勝手口から庭に出た瞬間にポトリ、外から帰って来て車を止めて勝手口から入ろうとするとポトリ。
まるで『どうぞ』と言っているかのように抜群のタイミングで無傷の実が落ちて来る事が多い。

この瞬間の『どうぞ』は、まるでばんじろうに心があるかのような愛情を感じる。
樹という生き物が私たちの動的な生き物と同じ様な感情があるのを実感する出来事でもある。

屋久島の栄養の乏しい土に生えていながら、肥料や水も自然の天候に任せていながら、春から夏に日光を取り入れて葉を茂らせて、大切に育てた実を惜しげもなく振る舞ってくれる寛容な心に、私は聖人のような精神性を感じている。

太陽の光が木の実に姿を変えて私たちの身体を養ってくれている。
その事を見つめれば、いわゆる食べ物というものは、元は全て光だという事に気づく。
無から在へ....

そして私たちも光で出来ている。
全てのものは光で出来ているという本当の真実を意識していたら、「違い」というものも、それすら愛情なのだと感じる毎日です。


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