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屋久島移住まで一ヶ月を切ったので、一年半ほどお世話になった街を瞼に焼きつけようと、最近よく散歩がてら記憶の編集作業をしている。
思えば強行突破のごとく、名古屋に来た翌日にアパートを決め、その翌日に入居(笑)
大家さんは「何故そんなに急ぐんですか!」と不審に思ったようだ、仕方が無い、住む所が無かったので、その間は小金を持っているとはいえホームレスだったのです。
兎に角、一瞬も気を抜かないという集中力の成果で良いアパートに巡り合えた。
今まで住んだ感想も、ここで良かったとホントに思うので、何の心残りも無い。
思い出せば、初めてこの街(覚王山)に来て、ここに住みたいな〜と思ったのが3年ほど前。
それが現実になるのは予想にもしなかったが、前回書いた屋久島の縁も含め、人の運命の筋書きというのは、その本人が書いているのかも?と思うような事が良くある。
寝ると起きだしてくる奥にいるもうひとりの自分が書いているのだとしたら、それもありえる。
というか、おそらく人生はそうなっているのだと思っている。

見なれた街波を眺めながら、住み始めた当時の新鮮な「眼」に切り替えて見ようと思ったら、案外すんなりそれが設定出来た。
初めて見た時の気分や空気がありありと蘇って来た。
慣れてしまった見え方とは明らかに違い、新鮮な輝きにきらきらしている。
両方切り替えながらしばらく遊んだ。
たまにこうして「初観に還る」というテクを使ったら、いろんなものが長もちしそうである。
居住環境も人間関係も。
屋久島も初めて見る時の時間を大切にして、それをずっと思い出すような楽しみを準備しよう。
とうとう来週行きます。

屋久島に住むようになったら、ずっと準備して来た「霊的な生活」を送りたいと思う。
霊的といってもオカルト的という意味では無く、言い換えれば「正直な生活」と言える。
「正直」とは、自分や他人を欺かない、嘘をつかないというのは当然ながら、直感に従順な姿勢というか、固定観念や過去からの決まり事に影響されない状態だと言えるかも知れない。
シンプルな時間をおくり、感謝の心で生きて行きたいと思います。
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先日、パートナーと知り合いのバンドのライブに行った。
そのバンドとあと二組の構成で、知り合いのが一番最初だった。
以前に彼らのHPでちょこっと聴いた音が気持ち良かったのが来る動機になったが、満足させてもらって第二部に移る。
二組目はソロのギターの弾き語りの人、東京から来ている。
三組目は大人数の近県の若者バンド、このあたりで私はとても居心地が悪くなってしまって、ちょっと曲と曲の合間を見計らってパートナーに「行かない?」と聞いた。
彼女も同意見で一緒に出口に向う途中、知り合いのミュージシャンの知り合いに会うが、店を出る事を言うと「私も」と一緒に冷えた高架下脇の道路に出る。ぷはぁ〜

音楽を語れる言葉を持たない私は、二人に「何が気持ち悪かったんだろう」と聞いたが、二人の意見は「あの人達の音楽に対する姿勢の問題」と実に明確な解答。
テクニックがどうたらとか歌が上手いとか下手だとか、そういうのはあまり重要では無い場合もある。特にライブという特殊な環境では耳よりも空気や匂いや照明や、もろもろの環境をひっくるめてその時間の空間を感じるから。
ただ二組目と三組目に共通しているのは、自分(達)の創作物を披露する時の、その精神性が観客に向いているのか?自分に向いているのか?というポイントがまるで違った。
だから私は彼らのプライベートな部分を見たくないのに見せられているというような、不快な気分になってしまったのだろうか?
ただそれでも気持ちいい場合も確かにあり、何と言えばいいのだろう?
その境界はあいまいなのだが、あいまいながらも大きな差と感じてしまうほど明解でもある。
なぜなら今回外に出た3人はその点についてまったく同じ不快感を感じていたから。
私はライブの演奏の合間も、今に至るまでも、創作というもの、表現というものを考えている。
いや、もっと視野を広げるならば、人間の外面という大雑把な印象も含めてだ。
その人の雰囲気とか存在感というものが、実はかなりのその人の存在自体の情報を空間に放出しているんだろうと思う、ただ人間というものは多かれ少なかれ「こう見られたい私」というのを持っており、そう見られたい彼(彼女)というメッセージも含んで「その人」と読み取るように出来ている。
分かりにくい表現かも知れないが(笑)
私達は本来の「その人」よりも「そう見られたいその人」を重視して観るという傾向がある。
かっこいい服を着る。あまり知られていない情報を話す。髪型をキメる。明るく振舞う。
偉い人や賢い人のように行動する。お金に困っていないように振舞う。神を信じているように話す。
など・・・
その人が「そう在りたいその人」が外見の全面に感じられたら、その人がそうであるかのように理解するように世間を渡っている。
しかしその反面(潜在意識では)その人の本質も見事に嗅ぎ分け、かなり芯に迫った所まで「その人」を感じ取っているのも事実として有るように思う。
ひらたく言えば「僕らはずっとテレパシーで会話している」という事です。
そういう自分の感性に繊細に気づいて行く事が、自分の時間をより丁寧に扱って行く方法なのだと思っております。

最近私の文章は分り難いという評価を一部にもらっておりますが、見るポイントをちょっとずらして後方180度くらいから見ますと、ぱ〜っと何が言いたいのか分るシカケになっております(笑)
そこんとこヨロしくお願いいたします。

このテーマ続く・・・・
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屋久島との出会いは10年前だった。
音楽家のセイゲン・オノ氏が「屋久杉記念館」の館内で流す音楽の依頼を受け屋久島を訪れた。
CDアルバムを作る事になり、ジャケットの絵を当時知り合ったばかりの私に依頼して来た。
その打ち合わせへと彼の南青山のスタジオに行った。
初めましての挨拶もそこそこ、セイゲン氏はテーブルの上に屋久島土産の飛魚の干したものと、屋久島の石(花崗岩)をボンと置き「これ食べて、これ握って、感じたものを描いて下さい」と実にかっこいいオーダーの仕方をし。初顔合わせは5分で終了した。
家(当時は静岡)に戻った私は言い付けを守り(笑)ウェブで屋久島の資料などまったく見ずに、飛魚を食べ石を握りながらこのジャケットを描いた。
題名は「トビウオの結婚式」という。
なぜそうしたのかは良く覚えたいないのだが、その後セイゲン氏はオランダ人女性と電撃結婚をし、「マシマさんの絵が予言してたよ!」と驚いていた。

先日私の結婚相手に随分前に上げたこのカードを、彼女が引きづり出して来て「ここ!2008〜9、それにこれ結婚の絵じゃない!」と鼻息を荒げていた。
(*この2008〜9というのは年号では無くて品番なんですけどね)
1999年のノストラダムスの言った恐怖の大王が空から降って来る予定だった年に、このカードを描いていて、それから10年後、本当に人類が滅亡しそうな気配のする昨今、自分自身が屋久島の住人になるなんて、なんと人生の面白い事か。
あまり良く練っていない小説に有りがちの設定だが、実際にあるというのは小説より奇なり、と言えるのかもしれない。

そしてボクも結婚して屋久島に入り、時間を逆さに辿るような不思議な句読点を読む。
3月の2日から5日まで、彼女が勤める予定のツアー会社の方が探してくれた借家を確認に屋久島に行くが、実は彼女は2度目、私は初めて(笑)の屋久島訪問になる。

自分達も周りの人々も、私達の屋久島移住にはひとかど成らぬ思いを持っているのをひしひしと感じる。いったい何が待ち受けているのか。
期待に胸を膨らませながら、実はなんにも普通だったりするような人生チックな分岐点を迎えております。
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眼鏡を新調する為に視力検査を受ける。
ここ数年の老眼の進みから、自分ではかなり視力が落ちた気がしていたが、測定の結果
ほとんど変わっていなかった。
ただ手元に焦点を当て難くなったので、見よう見ようとする気持ちが眼力を酷使していたようだ。
老眼もだんだん慣れてくるもので、一気にガクンといった当初はショックでお先真っ暗な気分だったが、今では手元作業も本読みもほとんど気にならなくなってきた。
ただし残念な事は、食事の際に口元に運ぶ御飯のつややかなつぶつぶがぼやけてしまい、もったいないという事。
「眼でいただく」と言うがなるほど。
見えることのありがたさ。
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本年度版の地球暦の最初の頃のセッションで、しきりに「宇宙の型紙」というフレーズが行き交いました。
ちょうど種『シード』型の円盤のような形。
それを連ねるとしめ縄のようなパターンになります。
「はじまり」と「おわり」が「続いている」かたち。

インドのヴェーダでは、神とは「創造」「維持」「破壊」を同時に行うと定義しています。

よく見渡すと、自然界にはこの葉っぱのような「カタチ」が満ちあふれています。

縄文時代と呼ばれる次元の我々の祖先は、好んでこのパターンを使いました。

カタカミヤ


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2月に入ったら急に人に会うサイクルに入ったようで、昨日も昨日のテーマがあった。
自分の創作性に取り組む顕微鏡のような視点とは打って変わり、人に会うというのは自由自在なムーブカメラのような視点に立って物事を感じれるという機会であった事を
思い出した。
それほどこの3ヶ月は人に会っていなかった。
昨日のテーマは「実践」というコトであり、午前/午後/夜 と、会う人は違っていたが一貫した「実践とは?」が貫かれていた。

つくづく思うのは、人生の哲学であったり、信念だったり、そういう高尚なものを言語化するのは学習すれば誰でも出来る。
だから言語化の能力の高い人は人々の心を掴み尊敬されたりしている。
しかし、その哲学を実践するのは、目に見えない山野を幾重も幾重も超えていくような壮絶な工程であり、その人の悪戦苦闘ぶりはむしろ滑稽に写るようだ。
ほとんどの人は、その人が何を行っているのかでは無く、その人が何を言っているのかに注目するように教え込まれて来た。両親に、教師に、先輩に。

私達はまだそういう点に関しても、これから大いなる精神的成長の余白を残しており、世界のどんな分明や文化も、まだその分野の敷地は広大だ。

主義や宗教や、宗教というと日本人にはあまり馴染みが無いように感じている人も多いが、どんな文化でもそれぞれの善悪観を創って支えて来たのは、宗教というからくりだという見方をすれば、文化や文学や歴史的価値を除いた宗教的なもの全てを、もう一度でも何度でもちゃんと見つめ直す作業を始めなくては行けない。

宗教という概念の兄妹とも言える、教育や倫理やまたは科学。そしてスピ系。


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この頃は年末年始の怒濤の創作ラッシュの突き上げも落ち着き見せ、ゆったりとしたペースを取り戻し、ここ数年を検証しつつ散らばった点を線にして繋ぐような心持ちで過ごしております。
まだまだ風は冷たく乾いていますが、陽光は明らかに春の角度と柔らかさを帯び、身体の表面よりも先に身体の芯が地球の自転公転を感じているみたいに思います。
たまには絵の無い文章だけの日記も書いてみようと思いました。
春分の日に私達の送別会と結婚祝いの会を友達が準備してくれています。
私は老いた両親に出席してもらおうと思いました。
この歳になるまで一度も親孝行をした記憶が無く、出来れば避けて通りたかったような肉親との関わりだったのですが、結婚というのは今までの記憶をきれいにリセットしてくれる魔法のようなモノでもある訳で、私はこの機会に今生の血縁のカルマを一気に逆転するような行動に移りたいと思っています。
具体的に言うと、両親の望む事が自分の考えと違っていても、それを選択肢に加える・・・という当たり前の事なのですが、それすらも無視して自分勝手に過ごして来た自分を、とうとう見直す機会を得たという事です。
なんか軽く言ってますが、自分にとっては相当の変化です(笑)
両親が来てくれて目にしてくれる事でとても楽しみな事があり、それは私達の友達を知ってもらえる事です。
最近つくづく思うのは、ここ名古屋で出会った人達のなんて素直で純粋な事なのかという事、皆年齢もばらばらだけど、共通しているのは「飾らず偽らず嘘をつかず」という所。
名古屋はけっこう大きな国際都市なのに、そこに住んでいる友達は「村人」のように素朴でカッコウを気にしない田舎者のような美しさがあり、それは本当の田舎に住んでいる人達の方がむしろ都会思考だったりするような、楽しい矛盾のある街です。
首都圏に住む人の多くに感じられる「自分の事だけで精一杯」な感じじゃ無いバイブス。
離れるからこそ見えてくる名古屋の有り難さを感じています。
そういう友達に出会った(ている)というのが、社会的成功とは掛け離れた私の本当の財産であり、これまでの人生に対する答えなのだと自負しています。
それを両親に見てもらいたいと思いました。
東北の寒い街から飛行機に乗ってわざわざやってくる両親が、来た甲斐があるような新鮮な驚きを感じてくれるのが目に浮かびます。
春分の日ですから、今よりは気温も弛んで身体もぐっと楽になっているでしょう。
春は始まりに似合う季節です。
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今回はぎりぎりまで追い込んでの制作でした。
本日やっと印刷にGOが出て、18日からの配付になりそうです。
「チーム地球暦」という強力なメンバーが揃って世界に向け発信です。
海外でのワークショップも決定したようです。
私もついて行く事にしました。あはははは。

以下、チーム地球暦通信

チーム地球暦のディストリビューター(発信基地)となっている
ビオマガジン社が、毎月発行しているスピリチュアル&ヒーリング雑誌
『anemone』アネモネにて地球暦を、巻頭の特集企画として14pもフォーカス
しています。地球暦のなりたちや、入門編、そして、いまが旬の金星のついても、
入門編と活用編をかなりの情報量で乗せています。
また、中山康直さんの特別寄稿や、地球暦ユーザーの体験談なども掲載しています。

2月9日に発売の3月号が店頭に並びます。
書店でチェックしてみて下さい。
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昨夜はパートナーの知り合いが結婚と移住のお祝いに茨城から来てくれた。
私は初めて会うカップルだったが、ちょこちょこ話しを聞いていたのと、ここ数年の境遇にダブる所があるので、会う前から親近感を抱いており、会ってやっぱりの二人だった。
お互いに「結果はともかく飛ぶ」バンジージャンパーな性格をしていて、お互いに失敗から多くを学ぶ性質であり、お互いに知識より経験重視派である。
そうやって蓄積されて来たものを、似ているからこそ感じあう瞬間もあり、数時間の何倍もの質量のものを見えない交換をしていたのだと思う。
会話等はその時においてはほんの先鞭であり、もし何か未知のエネルギーを視覚化出来るようなスコープがあれば、ものすごいことになっていたかも知れない。
今まで知らなかった自分の分身に始めて会うような感覚というか、「いままで沢山の経験をありがつう」と出会いに感謝した。
屋久島にも長期滞在で来てくれるようなので、そん時はまたじっくり話したいものだ。
彼らはミクシィをかなり上手に活用しているタイプで、私がこないだ止めた事を聞いて「ミクシィは離れていてもお互いを確認し会える素晴らしいツールだ」と言うので、あぁそういう部分も大きいし、そういうものに沢山助けられたな〜と思う。
止めてみると、今まで当たり前だった事が急に途切れてしまい、お互いが行方不明になっているような感覚もあり、便と不便を感じてはいた。
屋久島に入ったら心機一転で再開しようと思う。
ただ私はこういうウェブとのつき合い方があまり上手い方では無いと自覚しており、日記やブログを強度な自己表現にしてしまう事が多い。
もちろんその時は自覚も無しに。
あとからふり帰り、「これは自己演出しすぎた自分だ」と思う事があり、気まずく思う事もある。
個人でもグループでも、自分達を良く思われたいあまりに、上手く行っている風に、もしくは謙虚すぎる風に演出してしまっているのを見かける。
アピールや宣伝無しに、そのまま座っている自分というものを、他人を通した目で見る事が出来るまで精神的に大人になったなら、かなり安心な毎日が送れる。
自分の背面にいる自分の正体に出会いたいと思います。
そういうのを正直というのかも知れない。
自然豊かな場所に一人っきりで居る時、それを感じる事があるように思います。


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