<   2009年 05月 ( 10 )   > この月の画像一覧

夕べから雨が続くな〜と思っていたら今朝は小型台風並みの暴風雨が吹き荒れました。
断続的な大雨と突風は、名古屋等でしたら大型の台風というクラスでしょうが、ここではちょっとした「荒れ模様」です。
まだ本格的な台風は経験していないけど、家が飛ばされるとか大木がなぎ倒されると聞いているので、これ位ならばと変に余裕をもってお茶をすすっているのでした。

ただやはり大川の滝がどうなっているのかかなり気になり、居ても立ってもいられない!と外に出たら、自宅前の岬にありえないくらいクッキリとした二重の虹が掛かっていました。
手を伸ばしたら届きそうに近く、はっきりと七色を読み取れる虹を見たのは始めての経験でした。
車で西に向かっても前方にずっと虹が見えて、そのまま大川の滝に導かれます。

滝に向かう小径を入り、滝の方向に立つ水煙の勢いを見て唖然としてしまいました.
興奮を押さえながら駐車場に車を停め、吸い寄せられるように近づくと、そこにはいつもの大川の滝の姿は無く、例えれば水で出来た大竜巻のような巨大なエネルギーが暴れまくっていました。

私はこんな近くでこんな巨大な力の塊を見たのは初めてで、大きく口を開けながら滝の展望台に向かうコンクリで作られた橋を歩いていったのですが、その橋も中間地点で水没していたので,安全な場所ギリギリまで近づいて再び滝があったはずの場所を見上げました。

全身に水煙を浴びてびしょびしょになりながら、しばらく放心状態で立ちすくんでいました。
私達のようなか弱い身体をした生き物など一瞬でばらばらにしてしまうほどのエネルギーを見て、私は瞼の奥から底なしの感謝の気持ちが湧いてきました。

涙なんだか瀑滝の水なんだか分からなくなって居たら後ろから奇声を上げながら近づいて来た若い女性と、爆音に負けない大声で「すごいね〜すごいね〜」と感激を分け合いました。

存在の常識を超えたものを目の前にすると、私たちひとりひとりの違いなどどうでも良くなるのを感じました。
そしてまたしても私は「この滝は自分だ」という強い確信を持ったのです。
それは中間の浜でハマエンドウに感じたものと寸分違わない感覚で、自分の後ろ姿を正面から見たような、誰かの目を通して自分自身を見たような心地よい独特の感じです。

世界中にある全ての目が、耳が、口が、自分自身のものであるような、あの独特の快感です。
そして今、同じ様な感覚を得た人が大勢居ると言う確信もあります。
なぜならば、その人の目や心を通して自分に流れてくるものを感じるからです。

過去や未来という幻想から外に出た、おおいなる「今」というステージに立っている事に気づいた人々が、この星のあちらこちらで生命の喜びを感じているでしょう。
それは徐々に周りにも伝線していって、まったく新しい価値観が生まれる事でしょう。

今までの幻想が全て剥がれ落ち、どこに行くのでも無い、ずっとここに居たという驚きが、地球中を歓喜の光となって包み込むでしょう。

私たちはどこから来たのでも無く、どこへ行くのでも無く、これまでもこれからもずっと「ここ」に居るという事を。
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このところ大川の滝〜栗生〜中間の浜..という黄金コースを毎日繰り返しています。
これは自宅が平内に位置するという最大のメリットであり、広い屋久島の中で「温泉/滝/海亀」が一気に味わえる最も南の島的な味わいとなっております。
そして毎日行っても全然飽きないのは、本当に毎日大幅に「違う」のが目に見えて分かるからであります。
毎日というよりも一分一分まったく変わるものだから、「あぁ今どんな感じ!!」みたいに(笑)
片時も気が置けないのであります。

そういうのがようやく屋久島2ヶ月目の私たちの、毎日の基本になっているのが自覚出来てきました昨今であります。
一雨ごとにブワっと大きくなる葉、増す緑。
昨日とまったく違う場所に居る様な感覚。

最近よく目覚めた時に、今自分がどこに居るのか?何者なのか完全に忘れて目が覚めるような事がありますが、そういう時はゆっくりゆっくり「今の設定」を思い出して行く事から朝が始まります。

あたかも『今日発生した』かのように、こういう名前であれこれ今までこうしてきたという設定にチューニングし直すかのように、この地球は46億年前に生まれたという設定。恐竜が滅んだという設定。日本という国の屋久島に移住して来たという設定を、毎日チューニングし直して今日が始まります。

だから逆に、その設定から外れる事もアリだなと感じているワケで、そういう事があっても全然不思議じゃないし、そういう風になっても多分全然大丈夫でしょう。

「こころの時代」だとか言われて何十年も経ちますが、最近はよりオカルト色が濃くなり、一般の方々でもオーラとか前世だとかを普通に会話するようになりました。

物質金銭主義の反動で自然や自己を超えた存在を見つける事で自分自身が進歩して行く様な方向を目指しているのでそうなっているようにも思います。

かくいう私もそういうスピリチュアルな、目に見えない世界を感じ表現するのが「新しい人間像」であるようにずっと感じて来ました。

しかし最近はそのようなものに疑問を感じています。
というよりも、スピリチュアルな感覚によって自己が特別な存在だと思ったり、何かの術とかパワーを身に付けたりする事と、ビジネスで成功を目指したり素敵な家や車を欲しいと思ったりする事がまったく同じ「欲や野心」から出ているように思います。
同じ「自我/エゴ」を喜ばせる特別な報酬なんですね。

かと言って、それが悪い事でもイケナイ事でも無いというふうに思っています。
今まで生きて来た感覚を一気に否定する事はナンセンスだと思います。
「生きる」という事は「自我」であると同じなのだと思います。
だからこそこれまでイケナイ事だと思って来たものをしっかりと見つめ直す事が大切な一歩であるように思っています。
世の中で「悪」と認識されている事の中に「真実」含まれているのかいないのか?

それに気づいてから、私自身も、今まで善かれと思って遭遇して来たもの全て「別の視座」で観る事を始めております。
何が良くて何が悪いみたいな、そういう二極的な分類を頭はしてしまう傾向がありますが、ふたつのものは実はまったく同じ物の表と裏であると気づけば、今まで見えなかったものもそうして見ると「たいしたことないね〜」みたいになって笑ってしまいます。

とは言っても、実は全然努力する必要は感じていないっちゅう〜か、それはそれで全部良い!という、どこまでも平原が広がっている開放感でもあります。
こだわってもこだわらなくても、迷っても明るくても、所詮は一緒っつ〜か、何も変わらない生命であるのでありますので、何も気にしないで毎日を新鮮に味わいたいと思っております。

何をしても何もしなくても一緒だという宇宙の真実に気づいてしまったら、自分は何をしたら良いのかが本当に見えてくるというパラドックスですね。

インラケチとかワンネスという合言葉にしても、本当は今もそうであるという事が分かれば言う必要が無くなるという事を前提にして、それでも言ってみるという「今の今日」があるという面白さ。にんげん万歳。
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以前ブログに書きました『ありえない見え方』について、これは誰にでも体験出来るぞ、と
思ってきましたので、その見え方に至る見え方の変化を記したいと思います。

まず普段私たちは、もの(この場合葉っぱにしましょう)が見える場合、その葉っぱのいろやかたちが
図鑑等で検証出来る様な、種や形態に分類された樹木の葉という(難しい)ようなとらえ方を
している訳ですが、その視座というのは「葉」を限定されたイメージで捕えていると言う言い方も出来る訳です。
簡単に言えば「ただの葉っぱ」だと思って見ている訳です。

それが見慣れたものでも、初めて目にする特徴のあるものでも、「葉は葉」というカテゴリーからは一歩も出ないのが、いわゆる日常的な接し方だと解釈しております。

そこで、その「葉っぱ」を今度は「ただのいろとかたち」という視点に変えて行きます。
有機物でもない、無機物でもない、名前もないただのいろとかたちだと思って見ます。

そうしてしばらくしたら「うわっ、なにこのいろ!」とか「なにこのかたち」みたいに、初めてそれを見たような気持ちになって来たら。それは「入り口」に入った合図です(笑)
「なに!このミドリいろ!!」みたいな。

自分の感性や見方がどんどん変わって行く恐怖を上手く乗り越えられれば、次第に「そのかたちを成り立たせている空間」が見えてまいります。
つまり「葉っぱのかたちは葉っぱのかたちを形成する空間に収まっている」という観点に気がつきだします。
モノを変えて野球のボールで説明すれば、ボールの球形の周りの空間(大気)が球形だから、このボールが球形を保っていられるのだ。という事が分かってきます。
つまり「ものはものそれ自体だけではなく、空間もものそのものである」という視座が芽を出して来ます。

冷蔵庫で氷を作る「型」がなければ、その型の氷が出来ませんが、自然界は正にこの型とものが同時に無ければみんなデロデロ状態の液体だというのを感じて来ます。
これは単純に「かたち」の入れ子状態という視点だけの条件でも無いので、そのかたちを成り立たせている諸条件に対する感性も必要なのですが。
(この概念はちょっととらえにくいかもしれませんので皆さん考えてみてください)

そこで、もういちど「葉っぱ」を見れば、「なんだこのいろ!なにこのかたち!!」という驚きの見え方になって行くのです。
この「葉っぱ」を成り立たせている「ある知性」がド〜ンと見えてしまうのです。
ひとによってはそれを「創造主」と呼んだり「宇宙の型紙」と呼んだり「神」と言ったりしていると思います。

さらに言えば、これほどのバリエーションがある「いろとかたち」にさらに無限のバリエーションを感じるし、さらにその無限のバリエーションに一貫して流れる共通した「知性」が見えて来ます。

雪の結晶が無限のバリエーションである事は知られていますが、まだまだほんの序の口の余裕のようなフトコロノ奥深さが見えてまいります。

今まで私たちがものや生き物につけて来た「名前」や「分類」の空しさもあります。
そういう「決まり事」が別の視座を邪魔している側面もあります。
常識とか「当たり前」という感覚ですね。
違う種類の生き物が共通の役割をしていたり、(たくさんいる)共通のデザイナーに創造されていたり、そういう自然界の面白さに気づくような「ものの見方」を沢山共有したいぞ!!と思いますわたし。

大勢で居ても、ひとりがその見方をしているとあれよあれよと伝線して行くのだと思います。
さらにこの空間に充満している光のうにゃうにゃや、自分たちやものや空間を「ひとつ」だと思える決定的な感覚に浸るツアーなど。

いっちゃんにその辺りのトレーナーになってもらって皆さんを「らく〜な世界」に入っていただきたい!!と思ってますわたし。

こうご期待。
(つづく)
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きのうはブラっと志戸子のガジュマル公園に行ってしまった。
先入観だろうか『○○公園』とかの名前が付いた有料の施設には裏切られ続けているので
最初は躊躇したが、青空がきれいだったので入ってしまった。

が、しかし.....

なんだこれは!!

最初の予想を覆し
この言葉しか出てきませんでした。

この生命力のえげつなさ。
タフを通り越して恥ずかしい位の貪り様。
美しいとは言いがたいグロテスクな外見とやり口に、私は底の底まで圧倒されてしまいました。
もうダメ。。。。

どん欲な生命力の美しさ。
これが『屋久島』なんだ。

ガジュマルの事を知らない人の為にその特徴などを少々書こうとも思いましたが
今回は全くしないことにします。
出会う機会がありましたら、是非感じてみていただきたい。

ガジュマルの語源は「絡まる」だという説があるそうです。
絡まり絡まりどこまでも生命を繋げています。

気がつけばウチの庭にも、辺りにも沢山のガジュマルがある事に今朝やっと気づきました。
ここのガジュマルは海からの強い風にチューニングしているので、まさに「台風」のカタチをしています。
以前この岬に吹いた大風のカタチが、何年も何年も刻み込まれています。

あぁ〜樹はすごい。
私はガジュマルのようになりたい。
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屋久島に来てからひと月半が経ったが、その間に雨が続いた事は無かった。
月に35日雨が降ると言われる屋久島だが、毎年この季節は晴天が望めるらしく、つくづく良い出だしを切らせてもらったのだと思う。
それが3〜4日ほど前から徐々に湿度が上がり、もうすぐやってくる梅雨の気配がする。
久しぶりにまとまった雨が降り、からからに渇いていた土の色が濃くなり、植物は日に日に大きくなって行く。
少し目を離せば、今までそこが道だったとは信じられなくなるほどの、南の島の雨と湿度の勢いは想像を超えている。

今日は朝6時から雨がしとしとの海中温泉に浸かる。
雨の露天風呂が大好きで、暖まった身体を雨が冷やしてくれるので、いつもより長めに入る事が出来る。
それに雨に濡れた岩も山もいつもとは違う表情を見せてくれるので、うっとりしながら一時間ほど。
家に戻ったら昨日縄文杉のツアーだったいっちゃんはまだ就寝中なので、夕べの残りのご飯を食べてコーヒーを飲み、そういえば大川の滝はこの雨でどんなになっているだろうかと考えたら、居ても立っても居られなくなり、長袖のシャツとゴアテックスのカッパを着て車に乗り込む。

大川の滝は思ったほどの水量では無く、それでは屋久島名物のプールを逆さにしたよう雨だったらどんなだろうと思いを馳せ、そのまま河口の浜に行く。
そしてこの辺りで頭は完全にキマっている。
雨だといつもの「いろ」はまったく別のものになっていて、初めてこの浜に来たような感覚になって来た。
川から海に流れ込む少し手前が池のようになっていて、バスクリンみたいな深いグリーンの水面に細かい波が立っていて、それを見ていてさらに深くキマる。

それでは愛する栗生のメヒルギ(マングローブ)の川がどんななっているかと考えて、車に戻る。

栗生に着く。
アマサギが大群で居て、私が近づくと徐々に飛び立つのだが、それはかなりヤバイまたキマってしまうじゃないの。

(つづく)
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屋久島に来てから、それは私にとって初めての経験なのだが(いっちゃんは経験済みだと)
目の前にある自然の生き物や風景が急に「別の見え方」に切り替わるようになる瞬間がある。
岩の上に散らばる落ち葉をぼんやり眺めていると、その葉の黄、オレンジ、緑、赤、茶などの色々が「ありえない色」に見えてくる。
視線を転じて川面を見ると、キラキラと波紋を形取る光が「ありえないヒカリのカタチ」に見えてくる。
この世界は決して「普通」では無く、全て「ありえない」もので構成されている事に気づいてくる。

その「ありえない」以前の私が自然をどのように見ていたかというと、例えばNHKハイビジョンのドキュメンタリーをまったりと観ているような感覚だった。
葉は葉であり、川は川だった。
それら全てが自然に馴染み全体が調和している様な、当たり前の自然だった。

一番最初にその見え方になってしまったのは、中間の小さな浜に咲くハマエンドウという、どこにでもある花と葉の『イキオイ』に気づいた時。
その姿かたち色が、「まったくこれは自分である」と理屈無く感じた時だ。
花の色やかたち、そして今まさに太陽のヒカリを全身に浴びて息づいている姿が。
もはや自分自身としか言いようがなかった。

それから何度かかなり自由にそのスイッチを使える様になり、今では車や原付を運転しながらその「まなざし」で世界を見ているが、少し危ないのでこれからは控えようと思っている。
それほど頭がキマった状態になっている。
その目の時の私は見えるものと自分自身がひとつである事が実感出来ている時間であり、これが菩薩のまなざしというものなのかと思っている。
菩薩という仏教的な視座に入ってしまうが、どう呼んでもいい。
この世界の別の見方。
しかしそれは「別の」と「こちら側」から言っているだけで、その目になっている時は「これが本来の世界なのだ」と解っている訳だが。
今は自由に行き来出来ていて、しかしたまには食い気やエロ気や怒りで我を忘れているとそのまなざしには同調出来ていない。
ましてや都会にいてもその目に持っていけるかとイメージしたら絶対無理なので、これは脆弱な「始まり」に過ぎないと思う。

頭がキマっている状態というと、例えばエクスタシーにイキっぱなしとだという言い方も出来て、「激しく落ち着いている」とも言える。
何で菩薩のまなざしを例に上げたかと言えば、真言密教の教典に「菩薩の心は常に絶頂状態にある」と書かれたものがあり「それは同じだ」と実感出来るからだ。
菩薩の心が板に付いて来たらその視野の先に広がるのは「如来のまなざし」になるだろう。
今はまだ多種多様な菩薩の管理する世界に多様性を観ているが、如来の「ひとつ」のまなざしが分かってくれば多種多様の根っこに繋がる「ひとつ」が実感出来てくるだろう。
菩薩や如来というと仏教臭くなってしまうが、それがシリウスでもオリオンでも、支社長でも会長でも、県でも国でも、何でも良い。
同じ物を見ても全く違う見え方があるという事を。
この世界はバウムクーヘン(年輪)のように数多くの層が渾然一体となって重なって出来ているという事を。
屋久島は私に教えてくれたのだ。
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この絵は名古屋のトライバルアーツの5周年用によしなが君に「好きに使って!」とプレゼントした絵で、彼は御丁寧にこの絵柄のヘンプコットンのTシャツとステッカーを送ってくれました。
なかなか着心地が良く、大事に着ています。
ありがとう!よしながくん。

さて、この絵は引っ越し間際の慌ただしい日々で「何も考えず」に描いたものですが、さっきボ〜っと眺めていてやぶさかでないメッセージが含まれている事を。我ながら発見したのでこのようにわざわざブログにしております。

この絵はこの世界がまだ「ひとつの世界」だった時空の様子を描いていて、旧約聖書のアダムとエバの物語を題材にしています。
性器丸出しでニコニコしている様子はスマップの人もうらやましい世界ではありますが、この「恥ずかしくない」というのが大きなポイントなのではないか!!と感じました。
ご存知の方も多いと思いますが、アダムとエバはこのヘビにそそのかされて「善悪を知る木の実」というものを食べてから急にマッパなのが恥ずかしくなったのだそうです。
ハダカでいる事が「悪」だと気づいた瞬間のちょっと前を描いた絵なんですね〜
つまり彼らはこの木の実を食べてから「ひとつの世界」から「ふたつ以上に分かれた世界」の住人になってしまったのです。

「善と悪」という概念が無かった世界って想像できますか?
よくよく考えれば、私たちの向上心は「悪」から遠ざかる為に発動されているようなものです。
悪から遠ざかり善に近づいた人を「あの人は偉い」とか「立派@だ」とか言うように、今の世界では「悪」が最高に嫌われていますが、この絵の世界には「悪」という概念自体がありません。
ひとつのものがそれぞれに現れている世界を表現しています。
私たちの世界は(こう言っては極論すぎるとは思いますが)「悪」をベースにして創り上げた世界のような気がしてなりません。
悪を意識する事が世の中を回すガソリンのようになっておると。
ここからが本日のポイントですが、では「ひとつの世界」ってどこにあるの?です。
あるんですね〜
人間の社会以外、私たちが「自然」と呼ぶ世界には悪も善もありません。
つまりもともと自然界には「悪も善も」無かったのでは無いか!?
人間が空しい設定で「一人芝居」を繰り広げているのでは無いか??
と、文明の全部を根底から台無しにしてしまうような発言でした。


さて「悪」とは何なんでしょう???
誰が作ったものなのでしょうか???

文字表現には限りがありますので今日はこの位で〜♪
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初めて縄文杉まで行ってきました。
観光で屋久島に来るのであれば、真っ先に向かうのが縄文杉であろうが、住人となる私は「会いに行こう」と心の底からの強い思いが湧かなければ、一度も行かなくても構わないと思っていた。
今回「行こう」と思ったのは、7月22日の皆既日蝕を記念したものを何か作ろうという話が起こり、ならば「オレに手描きのTシャツを描かせて欲しい」と願い出て、それが通った経緯による。
その総数108枚。
一枚一枚まったく別のアプローチで108枚描くとなると、これはただ事では無く、描き終わった時に確実に何か、自分の限界を超えているだろうと予想され、その前に屋久島の象徴であり中心に座す「縄文杉さま」に挨拶に伺いたいと思ったからだ。
普通よりも早く出発したせいか、行きはほとんど人に会わず、途中でアオゲラの勇姿を間近に見せていただけるという栄誉に預り、まだ朝の気配が残る時間に縄文杉にたどり着く。
その姿は大きく白く輝き、優しく厳しく美しく、屋久島の象徴に相応しい「アミダ如来」を彷彿とさせている。
いっちゃんと二人だけで拝し、ニ礼ニ拍手で参拝し、これからの仕事の決心を伝えて来た。
その願いが聞き届けられたのは言うまでも無く、家に着いたら「Tシャツが届いたから後で持って行くね〜」というメッセージが入っていた。
夕方にヘンプコットンのTシャツを取り寄せてくれたはっしーとコウタカが飛び魚の沖干しを持って来てくれた。
三岳を飲みながら宴会になる。
コウタカは純屋久島産の25歳の青年で、私は初めてコウタカに会った時から、彼の存在感に釘付けになっていた。
野生というか縄文人というか、生きて行く能力に関しては申し分無いと言ったムードを外見に漂わせていて、そして確かにそういう能力が身に付いていると本人も言う。
屋久島で生まれた男は、ひとり海で流されて見知らぬ浜に打ち上げられてから、それからどうやって生きて行くのか?という問いを自分自身にしながら成長して行く様なメンタリティを持っている。
専門職とは行かなくても、自分で住む場所を作り、魚を獲り、田畑を耕し、山や里で何が食べられるのか、何が薬になるのか、何が道具になるのかを知っていて、そして何が美しいのかを知っている。
それ以上のものがこの地球で行きていくのに必要なのか?と思える程。
若干25歳の青年が、生きて行く全てを持っているという衝撃は、今までの私の人間観を大きく変えてしまったのだった。
屋久島はそういう所で、そこで生まれるというのは宇宙で一番の優遇待遇を得たという証であり、後に移り住むという二次的待遇でも、そこに住む年数だけ生きる能力が自然に身に付くという場所なのであります。
その島に何千年も生きている樹があるらしい・・・・という噂を聞きつけて世界中から人が集まる。
その姿をひと目観たいと山道を延々と歩く。
その存在感はまさにカミであり、そこに至るまでに無数のカミガミに出会い、「いったいここはどうなっているんだ?」とひとりひとりの心に揺らぎを与える島。屋久島は
そこで生きる人もまたカミであり、だからこそ全てがカミなんだと素直に言える島。
ここに居たら神秘は消え失せ、ただ自然の姿があるだけ。
生きていて良かった。
それを一日に何度も思う。
屋久島は。
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これは高尾山リメイクTシャツ展に出展する為に制作したものです。
詳しくはコチラ・・・
http://takao-t.com/htm/top.html

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現在高尾山にはトンネルが2本掘られようとしていますが、その行為が豊かな自然環境を壊してしまう事が懸念されています。
屋久島に匹敵する豊かな自然が残った貴重な高尾山を守ろうと、有志が立ち上がり、様々な告知活動を繰り広げています。
友人のカネコミホがこの企画を進めており、私に声を掛けてくれました。
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是非HPを覗いて、今何が起きているのかを知っていただきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
Tシャツは関東を中心にしたいろいろなお店を巡回します。
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わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せわしくせわしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

宮澤賢治の「春と修羅」の序に書かれた文章です。

私はこれにたしか中学一年生のあたりで出会い、理解出来ないまでも底知れぬ真理の香りを嗅ぎ
宮澤賢治や彼の作品群に大きく引き寄せられた記憶のものです。
「銀河鉄道の夜」などは、まさしく上の序を証明する為に書かれたような物語だと思うし
法華経を基盤にしたオリジナルの哲学とも言える賢治の宇宙観を分かりやすく(?)導くのに相応しい魅力溢れる「詩」であると思っています。

屋久島に来てから、私はここに描かれた宇宙観をそのままズバリ体感しているような時間を過ごしていますが、これは「自然=わたし」という関係がとても簡単に実感出来る環境に居ると言う事でもあるのだと思います。
ここで言う「わたし」というのは、私の外見や生い立ちや経験や名前の「わたし」というものとは違い、人間とかヒトとか、そういうククリで言う私であり、ならば「わたしたち」と呼べばなお分かりやすくはなるのですが、あえて「わたし」と言う所に、人間という存在を支えているもっと大きな存在を読むものであります。
それはけっしてオカルト的な世界観や宗教的な概念を示唆するのではなく、むしろ文学的な、さらに言えば科学的な認識力を研ぎすました先に見えてくるものであると感じています。
賢治が一生をかけて追究したものは、今風に言えば「ワンネス」と言えると思いますが、今風に言うワンネスが「みんないっしょだよ」みたいな表面的には平和で幸福を伴った次世界をイメージさせるのに比べ、むしろ現状の世界の不公平や吉凶をも肯定したステージから俯瞰して観る、表面にあらわれているものでの認識とは違う、ものごとの真髄をうたったものです。
こういう見方をすると、今の世界が末世的な状況なのは分かりますが、それにたいして新しい価値観を指し示していると宣言しているようなスピ系やニューエージやUFOやチャネリングや、そういったものもほとんど全て、今なお古い価値観の中でうごめいているように見えてしまいます。
世界の不公平や吉凶の奥にある「共通」の「わたし」を見つけ出さなければ、短い一生もはかなく過ぎてしまうのでは無いかと自分に問いかけております。
屋久島は自然が超美しく超危険で、とにかく『超えている』のが当たり前の日常であり、極端な振れ幅にグアングアンやられながら、一日一日とぽつぽつ歩いていけるようです。
そしてここにいると頭の中の考えとかでは無く、現実の自然の動きが全て優先されるような持っていかれ方になってしまうので、今はただここに居れる幸運に感謝し、めいっぱい自然や宇宙を感じ、
毎朝「今日はどんな楽しい事があるのか!」とわくわくして目を覚まし、玄米ご飯を食べています。
雨ニモマケズ 風ニモマケズ
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