<   2009年 06月 ( 8 )   > この月の画像一覧

先週タカが来ていた目的は「六ヶ所村ラプソディー」の上映を島内3カ所で巡り、しめくくりで「ぶんぶん通信」と地元の人とのトークショーに出席する為だった。

私自身がスタッフで全ての準備と片付けを手伝い、映画に集まった方々の感じを視ていて自然に湧き上がっていた思いがある。
それは「答えの全ては田畑にあり」という確信だ。

都市部(とは言っても、現代の日本に本当の田舎は残っているのだろうか?どこに行ってもチェーンの外食産業が並んでいて、コンビニやサラ金の原色の建物が並ぶ通り、どこに居ても同じ場所だと錯覚する)そこで生活していた私の記憶をたどれば、都市部に生活する人たちの考えるエネルギー問題は、自動販売機を激減させる事やコンビニの営業時間を短縮させる事による電力削減。
みたいな。こういう方法論はたくさんあるが、基本的に感じるのは。。

「今の暮らしのまま環境が良くなるのを望む」

という絶対に無理な要求になっているように思える。
自分たちの住まいや仕事や生活環境を変えるという人たちも大勢居るが、大方はそういう極端な動きではなく、今のままより良い所に着地したいという願いに基づいているように感じる。

当然ながらこの姿勢はまったく自然界に通用しない。
文章が長くなるのでいちいち書くのは控えるが、地球のことを本当に考えるのならば、極端に言えば縄文時代に戻った生活をして、それでやっとスタート地点に立つようなものだろう。

それは無理な話だとして、それぞれが縄文により近づいた生き方に変えていくのがいっぱい溢れて来た兆しをもって、やっと「上向き」だと思う。

今はまだかろうじて「美しい」屋久島の自然も、いつ急に退廃してしまってもおかしくないような瀬戸際にいるんだと感じている。
加齢はある日急にやってくる。

私が思うのは、大勢の人が、出来れば全ての人が「自然農」を元にした田畑をやること。
自分たちが食べる分でいいと思う、余ったら人にあげればいい。
それで収入を考えなければ行けないような農業ではなく、あくまでも自給の為の田畑をやって行く事が、今の世の中を改める為の一番優しい方法だと思う。

自然農にこだわるのは、大規模でなければそれで充分で、あまり手間もいらず、安全な作物を得られるという利点、農薬や化学肥料や微生物といった自然界に違和感を与える薬を一切止める。
そのままの土に生命力が甦るのを待つ。

原発反対も戦争反対も、反対というプラカードを掲げて行進しているお母さんが家に帰って来て、地域の共同畑で野菜を作っている。
それでバランスが取れて行く様に感じます。

いつの日かコンビニや携帯ショップ並みに「農機具屋」が街のあちこちにあったりして!
まんざら夢物語でもないでしょう。
キューバという国はそういう変身を見事に遂げたのだから。

江戸時代や明治の中頃まで、日本人は全て手作りする民族だったようです。
何か必要なものが生じたら、それが幾らかな?という発想では無く、それを作る為にはどうしようかな?と考えました。
それがすぐに手に入らなくても。2年や3年掛かってスキルや技術を自分のものとして手に入るものは、ただのものじゃなくその人の一部になっているのです。

今回の流れの中でくっきりとした事は「すべての答えは田畑にある」という達観。
それが一番早く、一番確実に世の中が住み良い環境に転じる一歩だと思います。

そしてまずは「自分」から、、、、
縄文人に近づいて行きたいと思っています。
[PR]
今日は朝からしっかりと雨が降っています。
朝7時に安房を出発するトッピーに乗るタカを見送りました。
わずか3日間の屋久島滞在だけど、本人も言ってたけど、その倍のボリュームで屋久島を感じた時間を共に過ごしました。

すでに数多くの経験を積んでいるタカだからこそ、乗ったら(入島したら)即屋久島次元へのチューニングを開始し、一気に美味しいトコまでイッテもらいました。
以後、ページを一枚一枚めくる様に、屋久島のカミとの対話が深まっていったのを、側で感じつつ喜びつつ、あっという間の3日間に満足しつつあっけなさを思ったり。
タカがメキメキと感じていくのを見て、ほうらそうなるよね〜。と、自分を振り返る事も出来たので、私はこのブログに書いて来た様な事が、時間やタイミングの違いこそあれ、誰にでも理解してもらえるような自信を持ちました。

タカを連れて行った観光地と言える場所は永田の横河渓谷くらいのもので、あとは自分たちの生活の場がほとんどでした。
自然から感じる屋久島の神秘も沢山ありますが、そこに住む人から感じる屋久島は、また格別の味わいがあるもので、今回はソチラメインのおもてなしコースだったのです。

タカも言っていましたが「この感じは言語化しにくい」
だからこそ、自分自身の体験が重要になって来ます。
その表現しにくい感覚をあ〜でもウ〜でも伝えようとする行為が、つまりは創造の取り組みになってくるのだと感じます。

佐藤家の急展開から始まった今回のツアーの即興的展開でしたが、過ぎて見て強く思ったのはここに集った人たちの結びつきと信頼の絆の強化合宿だったなと。
そういう意味で全ての出来事に鮮やかで粋な愛の気持ちがありました。

屋久島に愛され屋久島を愛し、お互いに「オレは屋久島がこんなに好きだ!」と酒を酌み交わし話し合ひ、そこに乗る(住む)人々を自分の家族のように思ひ、屋久島に恥ずかしくない言動を目指し、出来ればヤクシマのヤクに立ちたいと思ひ、ずっとずっと屋久島に住んでいたいと思ひ、出来れば屋久島で死んで土に還りたいと思ふ。
[PR]
屋久島はすっかり梅雨に入っています。
噂に聞いていた湿度の高さに「違う場所に居るんだね〜」と実感が湧いて来ます。
屋久島島民というよりも鹿児島県民という聞こえに遠くに来たんだと想います。

昨日友だちと話していて「屋久島はそりゃ自分のこと不幸だとか悲しいだとか思っている人は少しはいるかも知れないけど、圧倒的に幸せを感じている人の方が多いね! そういう人がこの島をぐるっと取り囲んで、幸せのバイブスで島を包んでいるんだね!」と、屋久島のおかしいバイブスの解説になるような発見をする(笑)

先日大発生した白蟻の羽虫の妖精のような美しさに魅了されています。
今年は全島一致の発生では無く、集落ごとのアトランダムなイベントになっている模様です。
またどこかで遭遇する事を楽しみに。。

町民一斉の公道の草取りの前に、敷地内のほったらかし畑の大人の背丈を軽く超える程の美しい雑草をひとりで刈り込みました。
けっこう柔らかい草でしたので、ノコギリをカタナのようにばっさばっさと切り込みました。
2時間ほど、熱中症発症寸前で刈り込み完成で、すっきりとした青草の香りに辺りが包まれております。
こういう単純作業の中に幸せが入っているのを思い出しました。
この夏の間に、この草ぼうぼうの畑を使用可能な畑に仕上げるぞ!と決心。

裏庭の蟹が常時20匹程姿を見せるようになっています。
草食らしく、スイカの皮やレタスのはしっ切れを置くと取り合いをしています。
派手に喧嘩するわりには人間の事がおっかないみたいで、姿を感じるとさっと逃げます。
慌てぶりが愛らしいです。

今日からタカが屋久島に来ます。
明日の暦のワークショップ、明後日の「ぶんぶん通信」の上映とトークショウ。
ウチを拠点に少ない時間でどれほど屋久島のヤバさに迫れるかがコチラのミッションです。
タカはいっちゃんも私も長い付き合いで、こういう風にあうのも違和感の無い位に一緒にいろいろな経験をして来ました。
そのタカが私たちの新居の第一発目の滞在者になるという「流れ」に、この時空の演出家の粋な計らいを感じています。
タカには何でもない屋久島のあそこやあっちやここに、尋常じゃないコトになってるエネルギーを発見してもらおうと、主に観光地を除いた場所でのコネクションを準備しています。

タカが帰ると七夕をはさんで、周りはじわじわと皆既日食のムードに占領されて行くでそう!
[PR]
秀ちゃんの田んぼと畑を見せてもらいに行った。
自然農で耕さずに育てられた作物の生命力がハンパなく、今まで見た田畑のどれよりも美しいと感じた。
みかんの樹も野菜も稲も、刃物であるかのような角度で勢いがあり、何か表現力が追いつかないが、今まで見た事があるどんな田畑よりも自然に調和していると思った。

戻って。見学者(?)達でお茶を飲みながら語り合った。
私以外はプロの農家で(このプロという捕えたかたは後に相応しくないと思うのだが)私に見えている世界の何十倍もの情報を秀ちゃんの田畑で掴んだらしく、とても興奮していた。

皆の話を聞いていて、今まで私は大いなる勘違いをして来た事に気づく。
私は今まで農的生活を「原点回帰でもあり、未来志向でもある知的行為」というとなんだかアホらしいが、とにかく「ひそかにかっこいい」みたいな部分で見ていた事がある。

ところが皆を見ていると、明らかに私とは全然違う世界観を持っているのが分かった。

「なぜ皆んな自然農で田畑をやらないのか理解出来ない、こんなに自然とひとつになれる行為は他にはないし、こんなに本当に楽しい事は他にないから」とゆみちゃんが言った事で、私の心にあったブロックはガラガラと崩れた。

ぜんぜん見えていなかったんだぁ〜

賛否両論はあるだろうが「自然農」というのは農薬や化学肥料や微生物等、化学的な技術を排した所から始まり、その目的は地球に一体化した生き方である。
究極的に言えば、収穫量や利益まで受け身のお任せ大丈夫の姿勢である。

大規模農家のような野菜の作り方は、言ってしまえば野菜の養殖のようなものだと思うし、魚や動物の養殖と同様、生命に携わる現場でエゴを並走させるような矛盾を永遠に抱えている。

農業を商売にしない、畑は各家庭が自分たちが食べる分を作り、田んぼは何家族かが集まって運営するような姿に、未来の自分たちを観る。

半農半Xという言い方があるが、それもいかにも都会的な言い訳の言葉のような気がする。
農は何かと比べる事の出来ない、全ての基盤だと感じたから。
全ての人が農によって宇宙と一体感を感じている世界に貧困や戦争はありえない。
私たちは問題の解決の為にあれこれ無い知恵を絞る前に、まずクワを握る方が解決に早いかもしれない。

都会に居てもベランダでハーブを育てたり、郊外の畑を借りて少しずつ。
そういう事からしか本当の変化は無いだろう。
溢れる情報の波がぱんぱんに詰まった頭脳や心が破裂する前に、身体を使って自然とアースする時間を持つ事が、「楽な生き方」の基本かもしれない。

そして屋久島をぐるっと見渡せば、数多くの先駆者達が島を取り囲み、いつ始まっても大丈夫なように、いつ来ても平気なように、ずっと前から育んで来たのが分かる。

屋久島にある時間は都会と違って流れないのです。
右から左へ、もしくは左から右へと重低音で流れるのが都会の時間だとすれば、屋久島に在る時間は、ジワァ〜と島の周りを取り囲み、そこから温泉が沸くようにじわじわと積み重なっているのです。
過去も未来も「いまここ」にあって、ひと目でそれが見渡せるような異次元にあります。
屋久島に住んでまだ3ヶ月にも及びませんが、私はここに来るまでの体験が夢の中の出来事だったという感覚になってしまっています。

あの世、常世、シャンバラ、桃源郷、屋久島は。
そんな感じで。
[PR]
6月の6/7/8と屋久島各地でライブをしたくれたほうちゃんともんちゃん。
もんちゃんこと熊谷もんさんとライブの前に天然村の玄関先で話をする機会があった。
 
もんちゃんのオハコは『宇宙の大丈夫』というウタで、ただこのコトバだけを繰り返してメチャクチャ盛り上がるのが常であります。

「宇宙の大丈夫」って、言い換えれば「南無阿弥陀仏」と同じ意味。

マシマシ『宇宙の大丈夫って、良くぞ見つけたよね〜』

もんちゃん『「が」や「は」じゃなく「の」だもんね〜。。いろいろ考えて、やっぱ「の」だよね〜って思ったんだよね〜』

という、かなり高度(笑)な会話だったが、もんちゃんの持ち歌は「イマココ」や「愛の放射能」や「明るいきざし」など、これ以上解体細分化出来ない必要要素を題名にしている。

余計なものを外して外して、残ったもののメッセージの強さに快感を覚えるタイプは私も同じであり、それゆえの苦労(笑)もある。

「次の曲が作れなくて〜」
笑っちゃいけないが、ホントにそうだろう。
でも、これだけのメッセージだったら一生持つと思うので、宇宙の大丈夫。
*余談だが、もんちゃん本人は自分を「一発屋」と言っていた。

このブログの題名の「いろとかたち」であるが、実はこれも考え抜いてこれ以上分けられない!と付けた題名です。

この目に見える宇宙は「いろとかたち」だから。ただそれだけ。
という、とてもシンプルな言葉だけど、この言葉はそれゆえに強いコトダマでもある。

どこか自然豊かな場所に行って「イロトカタチ」と言ってみていただきたい。
最初は当たり前の風景だったものが、段々と「いろとかたち」で構成された不思議なものに見えて来る。
私はそれを「変性意識による見方」とあまり良く調べもしないで呼んでいるが、哲学用語やシュタイナーなんかを探ればそういった見え方の変化のテクニックが名前付きで紹介されているかも知れない。

口に出す事によって意識を強くしたり集中したりするテクニックだが、つまり「意識的に見る」という方法になると思う。

例えば何のヘンテツも無い樹の根元や岩などを見ながら『ミ.ド.リ』と口から発音すると、それまでは見えていなかった様々な緑色がうわ〜っと湧き上がって来る。
そうすると緑の色を帯びたものがいかに多い事か!!
自然。。と呼ばれているものはほとんどミドリ色か空や海や川の青色で出来ているんじゃ無いかと思う程ミドリに埋め尽くされているのが見えてくる。
黒や茶や赤や黄色やオレンジの中にも「緑」が隠されているのが分かってくる。

古語では「青」も「緑」のバリエーションと認識されていたらしいから、そしたらそこそこの世界は「みどりだらけ」になってしまう。

「宇宙の大丈夫」「いまここ」など、その言葉自体が本質的な力を持っている言葉を、一日に何度も口にしていると、段々とそういった方向にチューニングが合ってくるかもね。

「が」や「は」じゃなくて「の」だもんね〜



     
[PR]
Tシャツを描き始めたらやっと自分の身体にスイッチが入ったような躍動感を覚えました。
それまでの屋久島2ヶ月はゆっくりと移住の変動の調整期間であったようで、そしてそのまま産まれてからの時間(46年間)の調整をしていたような感覚があります。

それほど屋久島の生命の強さはハンパ無く!人生の折り返し地点で根本からの身体作りをじっくりと時間を掛けながらしていくビジョンが見えて来ています。

来たばかりんころは水道の水がこんなに美味しいんだ!と感激していましたが、慣れると遠くに塩素の味がするのが分かって来ました。
身体に入れるのは湧き水か山の水にしようと思います。
近くに大川の滝の湧き水があるので、2日にいっぺんはタンクに汲みに行っています。

米は玄米なので、動物性の食材は家ではまったく使っていません。
肉魚も食べますが、それは外食やお呼ばれした時に限られて、それはそれで楽しみです。

食べ物と水が良いのって現代の日本では本当に贅沢な事だと思っています。
都会に居ればついついコンビニで何か買ってしまいますが、ここにはそういう店も近くには無いので、良い環境なんだと感謝しています。

名古屋で知り合っていた友だちが屋久島の知り合いの家に滞在中で、彼はタイマッサージをベースにしたオリジナルの技を持つプロフェッショナルなので、この機会の2日に渡って時間無制限の調整をお願いしました。

二日目の仕上がりにはサマディに入って行く感覚を得たほどの濃厚なセッションで!以前の身体とは別の身体に生まれ変わった感じであります。

その人の身体というものは、決して精神や魂と別の現れでは無く、むしろ精神と魂が目に見える様なかたちになって存在する証明のようなものだと感じています。

遠く祖先から受け継いだものと、その身体や精神で経験したものがひとつの現れになっているのだと思います。
宇宙が誕生してからつづく「いま」が、一番はっきりと見えるのは人間の身体でしょう。
そういった意味でも人間の身体は神の入れ物の最高峰として在るように思います。

身体こそが神社...って本当ですね。

最近はホーミーを練習中で、倍音が自分の身体から出て来るのがこんなに気持ちいいんだと気づきました。
鹿はホーミーを鳴らすと興味深そうに寄って来たりします。
鳥も頭を傾けて聞き入っているような時もあります。

自然と自分が一体だというのを手っ取り早く感じる事が出来るので、ホーミーはお薦めですね!
自分のノドから風の音が産まれるんですよね。

身体と精神と魂..をついつい別なものだと考えてしまうのが今までの習慣でしたが、それらはまったく同じものなんだと言う事にしっくりし出してきました。

そして身体が産まれる為の材料は地球からお借りしている事を考えれば、『私は地球だ、』というのはまったく無理の無い考えでもあり、個別だと思っている『私』という存在があやふやに思えて来ます。

地球と身体が同じ物だった事が分かれば、あなたやわたしというのがいかに大きな存在なのかが分かってくるように分かります。

からだを大切に慈しみたいと思います。
[PR]
昨日から急にギアがトップに入り、ハンドペイントのTシャツを制作しています。
全部出来上がるまではお披露目しないと思います。

この時間は何に例えられるのだろう。
まったく時間が止まったような確かな感覚。
居間の机から見えるハイビスカスの赤さがキチガイのように赤いのです。
その赤い花びらを見ていたら「あぁこれもマシマシだ」と深く納得し、
そうしたらその花びらが急に風に揺れて応答してくれました。

私がこういう感じになっていった初めの出来事は、静岡の杉山開知のオフィスで初めて牧ともなりに会い、親子ほどの歳の差も気にならないような会話をしていた時です。

その開知の応接間には私が以前開知に贈ったおおきな絵が一枚掛かっておりました。
ともなりはその絵を見て、
「ましまさんはどういった発想で絵を描くのですか?」と聞いて来たのです。
私はしばし振り返り「まず、キャンバスに一点を置き、そこから『どうやったらキレイな線がひけるかな?』というのを『自分の』やりたいように引いてって、このキャンバスいっぱいに描けたら、それでおしまいなのだ」と応えました。

それを言った瞬間、「あ!これはどんな絵にも言えることだ!」とふたり同時に気づいたのです。
上手い下手という基準を無視するならば、どんな人でもそうして絵を描いている事に気が付いたのです。
その絵はその人にとっては「その時の最高のアート」になるというのを、その絵が有名な人が描いたとか、逆に絵心が無いと自負している人が描いたにせよ、結局は同じ事だと気づいたのです。

結果では無く、志(行為)に注目するのであれば、どんな人でもまったく同じ事をしている事が分かったのです。

それをそのまま人の人生に当てはめても、まったく同じような光景が広がっていました。
私たちは人を測る場合、その人の功績や能力や実績や、善や悪の立場や幸せか不幸か、そしてお金を持っているとか有名だとか、ダニみたいだとか厄介者だとか、そういうレッテルで判断するモードに設定されていますが、本当はその人(生き物)が生きているという事が、その事を見れば
お互いの違いはまったく無いという事が分かって来たのです。
生命という基準においては皆「生きている」という事です。
「なぜ生きているのか?」
「なぜ生きていられるのか?」

その時に急に眼前に果てしない平原が現れました。
あらゆる生き物や石や水の中に浸透している、もしくは包み込んでいる精妙な光のつぶつぶ。
それが宇宙の果てまでまったく同じもので出来ている様子が広がっていました。
私たちはそれぞれの違いだと感じている個々の特徴は、ただ表面の違いにすぎず、すべて同じもので創られている事がはっきりと分かった瞬間でした。

その光のつぶつぶが様々な経験をしやすいカタチに姿を変えて、それが私とかあなたとか猫とかクジラになっているだけだったのです。

だからこの世界はたったひとりで出来ている事。
ひとつのものが沢山に分かれて様々な体験をしているという広大なドラマ。
そのたったひとりを神と呼んでいるけれど、あらゆる宗教が指す「神仏」とは似ても似つかないものだったのです。
宗教は長い歴史の中で歪められて来たのだと思いました。

「あぁなんだ、ボクは神を知っていたじゃないか!会っていたじゃないか」とその時に思いました。

たったひとりの宇宙には時間も輪廻転生も必要ありません。
だってそんな設定は必要ないでしょう!
過去や未来という世界を想定する必要は無く、常に「いま」があるだけでいいのです。
だって「ひとり」しか居ないのですから。
対象となりうる「ここ」や「あそこ」は無いのですから。

これがワンネスなのか〜と分かったのですが、今まで自分が思っていたワンネスとは全然違っていました。
キラキラしたものではなく、どちらかというと「あぁ〜みんな同じじゃん」みたいな(笑)
努力したり学んだり、そういう事も本当はいりません。という空しさ(笑)
優れているとかカッコイイという幻想(笑)
ちょっとガッカリみたいな。

キリストもヒトラーも同じ事をやっただけなんだという空しさ。みたいな。。。


しかし、それがありながらも「この人生を楽しもう」と思う気持ち。
そういう所に今立っております。

はっきり感じるのは、遅かれ早かれ、み〜んな!その瞬間が来ます!!間もなく!!
2012年の冬至とか言ってる訳じゃありません。
今、そういう波が津波のように押し寄せているのです。

個人的には政治家や学者やお医者や宗教家たちがこんななっちゃったらどうするんだろ??というのがもっぱらの興味です!
なぜならやる気なくなっちゃうだろうから。

やっぱり百姓がいいと思います。
何でも出来るっていうのを百姓といいます。

宮澤賢治ってずいぶん前に気づいてこの準備してたんだな〜って思います。

話は尽きませんが、何やら久しぶりに雨が降りそうな空模様なので、今から海に行って来ます。
[PR]
初めて白谷雲水峡に行きました。
縄文杉と並んで有名な観光ルートなので、訪れる人数はハンパ無く、山の中に入るとすれ違う人が街よりも数倍多い(笑)のが笑い話では無いように感じた。
なぜなら森が「疲れている」のを痛く感じ、それでも一生懸命に人々に癒しの気持ちを一心に注ぎ込んでいるように感じたからだ。
縄文杉の道でも感じたので気のせいでは無いと思う。

森は性質上、常に生命の方向に向いていて、疲れていたり傷ついている人が入ってくるとその人を取り囲んで治療を始める。
屋久島程の生命力溢れる森は、その力も無限のように感じられるが、山は広いといっても有限なように、底なしに思える力も、徐々にすり減ってくるようだ。

屋久島の森の大部分は、癒しを求めに来る人たちに生命力を分け与えすぎていて、自分自身を蘇生させる力を充分に持っていない。
瀕死の状態になりながら患者を治療する医師のように、見るも無惨な傷に自ら施しも出来ない。
人の数が減ったり、いっその事この先100年観光客は森に入らないとか、そういう事でもしない限りだんだんと弱る身体を酷使しながら、森は人々に力を注ぎ、ゆくゆくは死んで行くだろう。

せめて森に入る人が、森の事を想いながら道を歩くならば、自分が森に出来る事を考えながら、そしてそのアイディアを実行しながら生きて行けるならば、森は死なないだろう。

森だけでなく、自然界の全ては相互に関係し合っているから、お互いがお互いの役に立つような関係性に戻って行く事が、自然に沿って行くと言うものだろう。

自然はいつも正直で、はっきりしている。
人は正直に生きる事を始める所から、真実の人間への門が開かれるように思う。
正直になるには限りが無く、自分や他人にウソを付かないなどという初歩的な準備期間を過ぎてからが、やっと正直の入り口に立つようなものだと思う。

正直な自分を見つめるという事は、身体と心と魂がばらばらに動いている自分を「ひとつ」に持って行くと言う事でもあり、自然の流れに同調しているという事にもなると思う。

自分自身がひとつにならない限り、自分以外のものも決してひとつにはならないだろうから、
だから私は、この正直になるという決意が、どんな知識や哲学や信仰をも凌駕する、本当のベーシックな姿勢なのだと感じている。

正直さに欠ける人物がいくら素晴らしい言葉を話しても、どんな知識を持っていても、空しく虚空に消えて行く幻をせっせと作っているようなものだろう。

そんな事を思いながら白谷雲水峡を歩いていました。

屋久島に来てから2ヶ月。
それまで見えていたものとは全然べつのものが、全然思いもよらなかったものが、見えて来たこのごろです。
[PR]