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屋久島の日食は雨曇りだった。
しかしそれは在る意味最高の時間だった。
私といっちゃんは山にある茶畑でふたりっきりでその時を迎えた。
風が起きた。
気温が下がった。
異様な雰囲気は辺りの鳥や木々も感じとっているようだ。

それはその場に居た人にしか分からない、映像では絶対伝わらない霊的な現象だった。
それは確実に全てに影響を与え、もう以前の感覚には戻れない。

この世が終わって、新たな世が産まれる時はこんなふうだろう。

私たちは日食の事をあまり話し合わなかったけど、過ぎてから思えば、これまでの島の生活の
大部分はこの日への準備だったと分かる。
大勢の知り合いが我が家に合宿し、それは合宿の名に相応しいほど各自の修行の場だった。
それぞれが心の奥底の自分に向き合う経験をして行く.

それはこれまでウチを訪れた友だち達とは違い、在る意味苦しい経験だったかも知れない。
日食みたいに一度死んだ太陽が復活するように、それぞれはこれから大きな変化をするのだと思う。
人生の変わり目はいつでも、最悪に追い込まれた先に在ると思う。

やれやれだったけど、みんなありがとうお疲れ様。

私はこれから田んぼや畑や作品の制作を軸にした落ち着いた生活に入ります。
このブログもしばらく夏休みして、またいつの日かお目にかかりたいと思います。

本日はマヤ暦の大晦日にあたる「時間を外した日」です。
夕方から仲間たちと集まってお祝いをします。

当たり前と言えば当たり前ですが、人間の生活を軸にした現暦の元旦(1月1日)よりも、
世界的、自然的な切り替わりはこの時期に起こり続けています。
世の中が音を立てながら変化して行くではありませんか。

銀河を己の中心に観て。。。
とにかく暑い。。。

だいたい午前10時を過ぎると家の中に居る事が辛いくらい あつい。。
それから夜の10時までじわじわ暑い。

夜10時以降から翌朝10時くらいまでは、こりゃどちらかというと 
涼しい。。のだから、
今まで経験した事がないような気候だと言えます。

日中も日陰に入れば湿度もなくカラっとしていて過ごしやすいのだけれど、
基本的に仕事がはかどる気温ではない(36度前後)

これが10月の後半まで続くという事なので、まいにちをゆっくりとあせらずに噛み締めながら送るという基本姿勢が培われるのであります。

しかしこの世のものとは思えないほど美しい夏で、空の青色と海のなんとも言えない深い紺碧は、緑の山に映えている。
美しいものに囲まれている。

何もかも普通じゃない島の夏は、もうすぐ皆既日蝕を迎える。
日増しに旅行者の数と警官の数と救急車のサイレンの数が増えている。

無作法な旅人対策で、皆既日蝕前後は各集落の消防団員が駆り出されて、空き地やテント泊してはいけない事になっている場所の見回りをするのだそうだ。
入れるだけ入れておいてそれも無いと思うが、それぞれが別の利権で動いている現在の社会では、どこにでもこういう図式は現れる。
消防団員は本来の任務とは違う仕事に翻弄される。

私は今回のこの騒ぎの根底を流れるテーマをしっかりと見たいと思っている。
「自然」とか「天然」を取り入れるのは無料。
といった甘えた思いが世界各地の観光地にリゾート開発の津波を起こした。
それを味わうのは「善」だという強力なバックアップの元、次々と古代からの浜や岬や山は壊されていった。
「そこの自然をより良く味わうため」という大義名分を持って。

愛する自然をより愛したいという思いの結果、自然とは呼べない不自然な美を賞賛されて勿体ぶられていく。
クーラーの効いたジャングルや虫の居ないバカンス島が造られて行く。
化粧されたもの、添加物にまみれたものを美しいと思う人たちが大勢それを支持して行く。
作られたもの、味付けされたものが「自然」だと絶賛されて行く。

今までかろうじて危ないバランスを取って来た屋久島はこの日食をきっかけにどちらに転ぶのか?
その他と同じ様に人間の無力性を表して流されていくのか?
屋久島の自然を守りたいという気持ちが大きくなっていく流れなのか?

屋久島に住んでいる人は、皆屋久島に食わしてもらっているので、真剣に考えなきゃいけません。
私は屋久島で死にたいと思っていますが、楽しいだけ2〜3年住みたいと思う人も沢山居て、それが良いとか悪いとかでは無い、全部ひっくるめて「分かってる?」ってのを持ちたい。

ここは周囲130キロの小さな島ですが、私はここの環境を守り、出来れば以前の環境に少しでも戻す事が、ここで生きる自分の一番のヤクメだと考えています。
そしてそれが、このまま地球環境に対する巨力なアピールに繋がる事を考えています。

遠くのどこそこよりもまず足元から始めなくては始まらないから。
ここで発信した事は地球の裏側まで届きます。
地球の裏側からでも屋久島には旅に来るのですから。


何かの縁でこの時期に島に居る皆さん。
そこで触れ合う機会のある方へ、これを伝えたいと思います。
そしてこの思いを理解出来る方へ、人に伝えていただきたい。
7月7日は満月で、屋久島では「まんげつ☆たなばた☆まつり」が開催されていた。
野外で周りが山の稜線に囲まれた会場には月が遅めに登った。
月が顔を出したとたんに、それまで暗かった会場の隅々まで柔らかい光が届く。
「月」という星はなんて分かりやすい存在なのかと改めて思った。

急に気分が変わる事は今までも無数にあった事で、ただそれが自発的なものなのか?周りを意識してのことなのか?それが両方の作用によってのことなのか?で意味合が違っては来る。
7月に入った私は急に自分たちの生活を検証するような眼差しに切り替わっている。
そこから見たら今までの3ヶ月はちょい長めの旅行だったのかも知れない。

屋久島では強靭な生活力を携えた人が沢山居て、それぞれが経験から得た独自な哲学を持っている。
自分はというと、感性が強力に前面に出た、生活力に乏しい新参者という所に位置しているようだ。

それはまったく「使えない」ワケであり、これからの態度次第では屋久島で暮らしていくのに落第してしまうような危機感さえ漂わせている。
楽しいだけでは生きていて楽しくないのだ。

田畑をがっちりと守り、自分たち家族の食べるもの位は作れるようになるという私にとって夢の環境に居るのだから、つべこべ言わずにそうしたら良い。
誰にも頼らずに自立した生活というものを、この歳からでも出来ると言う事を証明出来ると思うのだ。

いとつひとつを経験して積み上げていくような遠い道になるのだろうが、本人にやる気がある上では苦労は楽しみになると分かっている。
いつか手に入ると分かっているものに、焦りや祈りは要らない。
さらに、どういう展開になろうがそれが自分にとっては最善の結果の連続だ。
という信念があれば、祈りや願いというものさえ要らないというのが分かる。

祈りや願いというこころの方向付けは、つまりそれが叶うのが当たり前じゃないという本音の上になりたっているので、むしろ望む結果を遠ざけているような事もあるようだ。
すべてのものは表面上は別々の姿をしているが、中から見てみればまったく同じひとつのもので出来ている事が分かったら、祈りは自然に消滅するだろう。

むしろ、あらゆる経験の前に、この「ひとつのもの」をはっきりと見る経験こそが一番大切な事で、これが無ければあらゆる行為が見当違いなものになっても仕方が無いほど。
力まず自然体で求めず、良い事も悪い事も全体の中の波の様なものだと感じられたら、人生が抱える諸問題の内の幾つかは無くなってしまうと思う。

願う前に、祈る前に、どこかで起きている事柄を自分自身のこととしてとらえられたなら、その出来事の本質の中に入って行って、それを自分自身の問題だと本気で考えられたら、願う前に祈る前に、答えは目の前にあるはずなのだ。
だから「祈る前に感謝する」という気持ちになるのが自然なのだ。

そんな事をしばらく私はじっくりと見つめる時間を持たずに遊び回っていたので、やっとじっくりと屋久島に腰を下ろして始めて行くと言う気持ちになったのです。

だからこれは自分自身に言い聞かせる様な文章であり、初心に還る意味でもたびたび読み返してみたいと思っています。

日食はけっこう盛り上がっていますが、私はこんな事を考えているので、日食の欠けて行くのを肉眼で見る事よりも、自分の心の眼で見る事を分かって来たので、私はどんどん冷めているのです。

日食が我々にどういう変化をもたらせてくれるのかを見つめるよりも、この世界を私たちがどんな世界にしたいのかを、はっきりと明確に信じる事が出来なければ、何も変わりない地球次元がそのまま滅びるまで続くと思います。

遠くで起きている悲惨な現実や身の回りの懸念事を同じ視座で見つめられるような自分でありたい。
すべての責任を感じ、全ての歓喜を感じ、他を動かすような解決ではなく、自分自身を見つめる事でそれの応えを行動で現す様な生き方を。

それは今までもずっと心掛けて来た事なんだけど、過去と呼ばれる記憶や未来と呼ばれる予想みたいな幻想次元の話では無く、いまここという真我の真ん中で。
今朝から梅雨明けを思わせる青い空と海を見ながら海中温泉に浸かっていた。
田んぼが来てからというもの毎日、朝6時ころから草取りや周りの気を整備しに向かう。
こちらの気持ちが伝わって行くに従い、田んぼはどんどん勢いを増して行く様に感じる。
やっと、私もこの田に受け入れてもらったようだ。

受け入れてくれたのは田んぼだけでは無く、たぶん近所の犬だろう、屋久島犬が今朝は私の傍らで草払いの長鎌の動きを見ていた。
おとつい位には興味ありげに近くに寄ってはまた遠くに走っていっていたのだが、ついに我慢出来なくなって私の身体の匂いを嗅ぎに来て、悪い人ではないと確認したらもう友だちのように振る舞っている。

屋久島の犬ほど幸せな犬たちは居ないと思う。
放し飼いか、それに近い生活がストレスを無くしている。
まるで犬の姿をした子供のように、思いっきり大地を駆け回っている。
人間の子供はというと、これは子供の姿をした犬のように駆け回っている。
これだけ見ていてもこの島は自由だと証明出来るように思う。

屋久島の自然の特異さなのか?
ひとりで居るとほっといてくれないように話しかけてくる。
風が陽光が木々が水が虫や鳥や生き物達が、うるさいように話しかけてくる。
それらのほとんどは、今まで見て来たような普通のどこにでも居る種類のものたちだけれど。
この島に居るものたちはどれも信じられない位の生命力を発揮しながら生きているので
まるで初めて見たかと錯覚するほどに姿を屋久島バージョンに進化させている。
スーパーサイヤ人を彷彿とさせる、人もいずれはそれにしたがって行く。

この島は歴史には残っていないけど、縄文の前期以前から人が住んでいた形跡があり、ヒエログラフも発見されている。
こんなに特異な島なのだから、人類の歴史の初期から人が住んでいたのは当たり前だと思う。
なにより豊富なきれいな水は世界でここにしか無いだろう。
巨石や地形を見てもピラミッドを思い出すような「シゴト」を感じるし、種の特異さにも意識的な関与を感じ無くはいられない。

私の勝手なイメージによると、今の次元と違う次元の時空で、ギリシャの神々とかムーとかアトランティスとか、
そういう神人の闊歩した舞台では無かったのかと感じている。
空も陸も海も自由に使えた上古代のカタカムナ文明の神人が、花崗岩で出来たこの島全体を共鳴させて、次元変換を果たして別の次元へと旅立った場所なのではないだろうか。

などと思いを馳せてもそれがまんざら作り話には思えないような体験を沢山の人がしている。
ここに住んでいる人は正直である事が必須条件で、他人に良い顔をしたり見かけを装ったりしなくなって行く。
これは私が言っているだけでは無く、ここを訪れる旅人の中でもかなり鋭い感覚を持っている人がこぞって言う事だ。
それが「分かった」という事は、あなたは屋久島から招待状を貰っているという証でもある。

語っても語っても屋久島の素晴らしさは語り尽くせず、感じても感じてもまた奥の扉が簡単に開かれて行く。
毎日を過ごしているのかと思えば、そうかここは今でしか無いという気づき。
「いまここ」という、時間も空間もない巨大な意識の中に在る島。

屋久島は。
4月に移住したアタリを見て、今年はちゃんとした田畑は無理そうだから
来年への布石をこの夏から始めようと思っていたら、急に田んぼをやる事になる。

夏が終わったら島を離れる友だちが作っていた自然農の田んぼを交替して引き受けたのである。
始めから関わっているナオコちゃんと二人で育んでいく事になった。
しかも家の前の道を山にむかって車で5分という近さ。
屋久島のカミのご配慮を心より感謝いたします。

それで初日の今日はすぐに田んぼには入らず、まず田の周りの草払いを長鎌で小1時間やる。
そして東から田んぼのカミサマにご挨拶して、初めて田に足を浸けさせてもらった。

途中からとはいえ、ココが私たちの田んぼになった。
ナオコちゃんが草取りのやり方を指導してくれる。
おしゃべりしながらの草取りは止まった時間を感じられる最高の時。
時々途切れる会話の中で本当の静寂を何度も感じた。

あぁうれしい!!
オレの田んぼ。初めての田んぼ。

初めてだと思う。
自分が責任をもって診て行く田んぼを持てたのは。

こういう小さな事が大宇宙では大きな事件になって行くのだ。
誰にも知られずにやった事こそ、宇宙から見たら大きな仕事になる。
人の目を考えたり、誰かの噂になる事を意識したり。
そういう都会的なやり方は自然に抜けていっている。
ただ今。
この屋久島にある、オレには大きな、屋久島から見たら本当に小さな場所をカミにお借りして
農民芸術家としての私の第一歩は始まったのであります!

毎日が楽しみな毎日が始まった。
今年の梅雨は雨量が少ない。
そのままどうやら梅雨が明けそうな気配がしている。

ウチは島の最南端に位置する岬に建っていて、沖はるか遠くに深い群青色の海面が望める。
その深い群青色がだんだんとこちらに近づいたり遠のいたり。
破沙岳を超えて奥岳を乗り越えたら梅雨明けを知らせる雷雨が来るだろう。
昨日は これは明けたか! と思わせる晴天だったが、地元の人は一様に「来週だね」と言う。
長年の勘は天気予報よりも正確に。

南の島の特有の湿気の多さも初体験だった。
あらゆるものにカビが生えそうなジメジメした空気。
渇いたタオルを掛けているとそれが湿ってしまうほどの水分の濃さに、これがずっと続いたらいつかは両生類みたいな皮膚になってしまうんじゃないかと思うほど。

それが一気に抜ける夏が目の前の海に見える。
屋久島はじょじょに皆既日食のムードになってきている。
あと3週間にせまっている。

屋久島は島民が14000人、いつもは観光客が約5000人。
それが皆既日食の前後は島に50000人の人間がいるという予想をしている機関もある。
それほどの人間の出すゴミや糞尿の処理はまったく事前準備のないまま日食の日を迎える事になりそうだ。
ゴミはこの1週間に捨てられたものを今後数年間かけて焼いていくという事だ。
その期間は食堂レストランはもとより、スーパーや商店等の食材は全て姿を消すだろうという予想もある。

まるで今の地球の食料危機やゴミ処理問題を一気に体験するのが皆既日食だ。
このわずかな期間に屋久島は相当ダメージを被るだろう。

本土から覆面警察官が400人くるという。
家に鍵などかけない島民に急激に都会の自衛意識が蔓延する。
レンタカーを5000台増車させるという。
島をぐるっと回る県道が初の渋滞を経験するという予想もある。
空気が悪くなりガソリンが品切れるといわれる。

このお祭り騒ぎはどんな意味があるのだろうか。
自然を愛する人が自然を破壊している。

人間のエゴや自我を見つめるという宿題にしては、リスクが多いのではないか。
取り返しがつかない打撃を、しっかりと刻み込んでしまいはしないか?

私は屋久島に来て3ヶ月。
正直に言えば、日に日に感性が変化していって。
今の自分の最大の喜びは「屋久島の役に立つ」というものになった。
それ以外は関心が無くなってしまった.

友だちが遊びに来ても、自分が感じる屋久島の一番美味しいところを最大限に味わってもらうという事が自分の最大の使命だと思うようになった。

それが皆既日蝕の7月22日が近づくのを感じるに、すこしナーバスになって来ている。
皆既日食を見物しに屋久島に上陸する事は、決して屋久島の為にならないという事が分かっている。
それを肉眼で見たい!という気持ちも理解は出来るが。

少し重い題材ではありますが、来る人も来ない人も、ちゃんと考えていかなくてはいけないテーマを、ただやり過ごすのでは無く、その人なりの取り組みや気持ちを感じたく、文章に記す事にしました。

もしまだ間に合うならば、心の眼で皆既日食を見て下さい。
それがどんなメッセージを私たちにもたらしてくれるのか?
その意味をハートで感じられたら、皆既日食の日に、重なる時間に、ハートはひとつになって
おおいなる宇宙の神秘に入る事になるでしょう。

身体は私たちでは無く、身体を包み込むものが私たちだという意識の産声として、皆既日食を。