<   2009年 09月 ( 23 )   > この月の画像一覧

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「いつかどこかで」なんてとてもロマンチックな言葉として、歌や映画の題名にもなっています。
私もつい最近までは口にして、明るい未来を描く様な前向きな意味をこの言い方に感じていたように思います。

でも「いつか」っていつ?

「どこか」ってどこ?

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今の自分の状況に不満があって「私はこんなはずじゃないぞ」とか「ここは私の居る場所じゃない」等の意味合で言うのであれば、それは「しあわせ」の先送りなんじゃないかと思い始めました。

よくよく世間を見渡せば、この身体がいつまで呼吸をしているかなんて分かりません。
その終わりは突然にやって来るのかも知れません。それは良くあることです。
年齢や持病の有る無しに関わらず、私たちの一生は自分の思い通りにはならないというのが、自然の摂理です。

だからと言って、死が不幸だとは思いません。
誰でも必ず肉体を離れるというのは、毎日太陽が昇る事と同じ摂理に支配されているからです。

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自分が幸せな気持ちになるのを先送りするのでは無く、「いまここ」で幸せになると言う方がずっと素敵な生き方だと気づきました。
目の前にある思い通りにならない事項は、必ず過ぎ去りますよね。
人も環境もとどまらず動いているのも自然の摂理です。

毎日新鮮で常に移りゆく屋久島がそれを私に教えてくれました。
だから今度は屋久島を離れてみて、それがどのように全てに当てはまるのかを見てみたくなりました。
今月末に初めて福岡に行く事にしました。
都会から見た屋久島を感じに行きたいと思っています。

でもそれも「いまここ」であることは分かっているんですけどね。
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庭のばんじろう(グアバ)の実がいろづき出して来た。
濃い緑の固い実が急に黄色に変わって来て、そうしたら2〜3日でポトリと地面に落ちる。
強い南国の香りを周囲に漂わせ、割ってみるときれいなピンク色になっていた。

この家の大家さんが、この家を貸してくれる時に、ここは海中温泉が近いのと、ばんじろうとバナナがあるのが最大のポイントです!!と力説していたのを思い出す。
屋久島ではこれらの果樹は比較的ポピュラーで、庭や畑の付いた家ならば世話のいらないこれらの果樹ならばどこにでも目にする事が出来る。
だからそう言われてもピンと来ていなかったが、今たわわに実ったばんじろうの実を毎日いただいていて、その有り難さが身に染みている。

ばんじろうは食べごろが1〜2日しか無く、だから生の実が流通に乗る事はほとんど無い。
しかし夏の終わりの疲れた身体に栄養たっぷりのビタミンCを多く含んだ実は屋久島のこの時期に欠かせないものでもあるのだ。

家にはばんじろうの樹が二本あり、今食べごろなのがレモンにそっくりの形をしたピンクの実で、もう少しすると柿のような形の白い実だ。
まだためしていないけど、それぞれ味が違うという事だ。

朝起きるとばんじろうの実が地面に落ちているのを拾うのが日課になっている。
鳥がついばんだりカニがほじったりしていない実を少しいただいて、その日の収穫にさせてもらっている。

こうして毎日ばんじろうを眺めて気持ちを通わせていると不思議な事に、私が勝手口から庭に出た瞬間にポトリ、外から帰って来て車を止めて勝手口から入ろうとするとポトリ。
まるで『どうぞ』と言っているかのように抜群のタイミングで無傷の実が落ちて来る事が多い。

この瞬間の『どうぞ』は、まるでばんじろうに心があるかのような愛情を感じる。
樹という生き物が私たちの動的な生き物と同じ様な感情があるのを実感する出来事でもある。

屋久島の栄養の乏しい土に生えていながら、肥料や水も自然の天候に任せていながら、春から夏に日光を取り入れて葉を茂らせて、大切に育てた実を惜しげもなく振る舞ってくれる寛容な心に、私は聖人のような精神性を感じている。

太陽の光が木の実に姿を変えて私たちの身体を養ってくれている。
その事を見つめれば、いわゆる食べ物というものは、元は全て光だという事に気づく。
無から在へ....

そして私たちも光で出来ている。
全てのものは光で出来ているという本当の真実を意識していたら、「違い」というものも、それすら愛情なのだと感じる毎日です。


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今年屋久島にはまだ台風が来ていません。
新米の島民には穏やかな日々なのですが、なんでも秒速80mという風が吹く事もあるらしく
そんな車を飛ばしてしまう突風なんて出来たら避けたいというものです。

ここ数日は小潮なので、朝5時位に目覚めたらそのまま海中温泉に浸かりに行く日々を楽しみに暮らしております。
同じく小潮ラブの常連さんとゆっくり湯に浸かりながら台風の話を聞いていたところ
ここ数年屋久島には台風が上陸していないという事です。

それは人間には良いように思えますが、自然環境には深刻なダメージを逆に与えているのだそうです。
古い巨木が台風でなぎ倒されたり、海底までの波のうねりが海をすっかりクリーニングしてくれたり、
樹々に付く虫が吹き飛ばされて果樹園に活気をもたらせてくれたり。

台風の通り道という設定で成り立っている屋久島にとっては、台風の強烈な刷新のエネルギーも自然環境が若々しく生きる為には必要不可欠なものだという事です。

それを聞きながら「人生と同じだな〜」と思いました。
穏やかに安心に暮らしているばかりでは人間の能力は成長しないのと一緒ですね。
たまに凄いプレッシャーや乗り越えられそうもない試練を経て強くなっていくのが自然の摂理なのだと思います。

試練はむしろ「その人が強くなるための」愛情だと感じられます。
他をあてにしたり依存するような自分では無く、一人でも強く逞しく生きている人たちが沢山増えていったら、何かあっても人や社会に原因をかぶせるのでは無く、自分自身の精神を見つめて乗り越えていくような真っ当な生き方をしたいもんだなと思います。

見渡してみれば今の私たちの基本姿勢は「依存」だとも言え、それは有史以来ずっと続いて来た地球人の特徴でもあるように思えて来ます。
それが根底にあるなら、政党が変わっても、素晴らしいリーダーが現れても、明るい兆しはことごとく泡と帰して行くのだと思います。

まず「私」からの一歩が全ての基本になって来るのではないでしょうか。
それがいわゆる中庸という心なんじゃないかと、朝日が上る海中温泉で水平線を眺めながら感じていました。
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先日屋久島を訪れていた友人にいい事を教えてもらった。

「食べ物を100回以上噛む」

私は自覚ある早食い派で、特に蕎麦等は飲むように食べている。
その速度が癖になってかあらゆる全てのものを早く食べるようになっていた。
ところがそう言われ、おにぎりを100回噛んで食べたら、全然別の食べ物に変わっていた。
米がお粥状になり、米の奥の奥にある甘味が出て来た。
その美味しいこと!!
この美味しさをみすみす逃していたなんて!あ〜

そしてなにより「噛む」事は消化にも脳にも免疫力アップにもいいらしい。
健康上のメリットは言うまでもなく、噛むという意識的な行為をする事で、私はあるひとつの大いなる効果に気づく。

噛むと「いまここに」戻れる、ということ!
頭の中であっちこっち巡る思考から自由になり、本来の自分に戻って来られる。
そういうと「瞑想」と同じ心境だって思うかもしれませんが、その通りです。

こんな簡単でいい事ずくめの方法は独り占めして置く手は無しなので、こうして書いています。
100回ってのは「おおよそ」でいいと思います。

いつもより沢山意識的に食べ物を味わう事で、食べ物に感謝する気持ちが大きくなったり
自分の身体は食べ物から出来ている事を思い出したり、何より「どうせ食べるのならイイものを」
イイモノって言ったって、決して贅沢という訳では無く、自然から出て来たそのものをいただくという。在る意味本物のグルメへと向かっているように思います。

そして自分の出会った「良く噛んで食べる人」を思い出してゆくと、皆さんそれだけで無く、心身共にバランスの取れた人が多いな〜と実感。
当たり前の事をやってみて気づく有り難さです。
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東京から屋久島に来ているつっちー夫妻と私たち夫婦となおやで西部林道を散策した。
ゆったりとした時間を存分に楽しませてもらって、最後に海まで行って引き返そうとしたその時。
沖にイルカの大群がいるのを見つけた。

それはもう何百頭という数で、映画「グランブルー」のポスターを彷彿とさせるよう。
それは6年住んでいるなおやにしても初めての経験らしく、5人で群が見えなくなるまで見送った。

水族館や映像で見るイルカとはまったく違う存在感を放っていて、私は「神だ」と思った。
同時に「イルカの大群を見たよ」と文章にしても言葉で伝えても、この感動がほとんど伝わらないと思った。

陸のサポーターの代表が人間なら、海のそれはイルカやクジラ達だと思う。
遠く離れたイルカ達になおやがホーミーとシンギングリンで話しかけたら、確かに一頭の彼が応えてくれた。

イルカの姿が消えた海原に向かって、皆は拍手して「ありがとう」と叫んだ。
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私の住まいがある屋久島の平内集落にある「渡辺商店」のHPのイラストを描かせてもらっています。
この夏に若旦那の浩さんとイメージを合わせてコツコツと進めて来ました。

屋久島の各集落には生活雑貨、食品、お酒等、日々の生活に必要なものを扱っている「商店」がそれぞれ在り、それはただの商店の枠を超えて島の情報の集まる「センター」の役割を担ってくれております。

誰かが借家を探している。土地や畑を探している。だの、パートナー同士の出会いやレジャー等、相談に乗ってくれるような、都会ではもう想像がつかない位にその存在が大きなお店です。

特に渡辺商店は農作物(ぽんかん、たんかん、安納いも、パッションフルーツ等)屋久島の特産品を自社生産していて、島内はもとより県外からの注文を引き受けています。

屋久島の強烈な太陽を浴びて育った農作物はハンパなく味が濃く、甘く、美味です!
特にこれからは「安納いも」、そしてそろそろ「ぽんかん」の出荷が始まるようです。

是非皆さん、屋久島のバイブスを食べてテンション上げて下さい!!
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前にこのブログにも書きましたが、中間の砂浜に咲くハマエンドウの生命力の勢いを感じた時に
「これは自分自身だ!」という衝撃と共に、それまでの常識が崩壊した経験があります。
そして、それが自分自身であると共に全てのあらゆるものが自分だと体感しました。
そのときに眼前に広がった風景がこの絵のようなものです。

本を読んだり人の話を聞いて理解していたものと、その体験はまったく違うものでした。
頭で分かっている事柄が、ほんとにちっぽけな事だというのが良く分かった瞬間でもあります。
ただその体験をしてからというもの、以前していた見方にはどうしても戻れないという
この世界の常識的な「心の設定」を初めから検証しているような不思議な習慣も出来ました。

そして確信したのは、こういう体験はそれぞれ違った体験として訪れるかも知れませんが、
その理解は同じ様な理解になって行くだろうというものでした。

また、これは到達するものでも無く、実は「初めから知っていた」というレベルのものなので
「な〜んだ」なんて思って大笑いしてしまいます。
過去や未来だと感じていたことが、すべて「いまここ」で起きていたんだという冗談のような世界
が始まります。

どんな人でも早かれ遅かれこの事を理解するのも私にとっては火を見るよりも明かです。
つい最近、妻が「木の幹」を見て分かったという体験をしたようです。

そこから生きはじめる日常のもろもろの出来事は、全て極上の愛情に充ちた贈り物だという
まったく笑ってしまうような世界に住んでいるようです。


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