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屋久島に戻ってきました。

伊丹空港を飛び立ったプロペラ機は、たったの1時間半で別次元へと運んでくれました。
12日ぶりとは言え、懐かしい我が島の温度が私を包んでくれました。

京都でのヴィッパッサナー瞑想コースへの参加が目的の旅でしたが、その間に私に起きた数々の大事件は、とても一回の日記では紹介し尽くせません。

何度かに分けて綴って行きたいと思っております。


この瞑想会に参加したいと考えだしたのは、今年の夏位でした。
自分の人生の目的にはっきりとしたすがたかたちを見いだして来てからというもの、それを成し遂げるには余りにも弱り果てた私の身体と心に大改造を処さなければ成らないと感じたからです。

そんな時に一通のメールが届きました。

木の花時代からの知人である、新井由己さんからでした。
多方面で活躍されている新井さんが、ヴィッパッサナー瞑想の10日間コースに参加して感銘を受け、それを本にしたいと考えた時に私の絵が浮かび、その打診の為のものでした。

「ブッダの瞑想法 10日間の心の手術」

あまりにも完璧な流れの中で、私は確信を持って瞑想会に参加の申し込みをしました。

今まで瞑想を真剣にした経験はありませんでした。
どちらかと言うと、ほとんど興味など無かったのです。
それは、絵を描いている私にとって、絵を描くと言うこと自体が、瞑想と同じような心境を体験しているという、勝手な解釈を持っていたからです。
というか、本当の所は、自分に向き合うのを避けていたのだと思います。
自分の心地よい部分には積極的に向かい、不快を感じるものには出来るだけ関わりの無いように生きて来た私の、抜本的な大改造をする決心でした。

それは本当に決死の思いです。
私は冗談では無く、これに挑んで死んでも構わないと思っていました。
妻にもその覚悟を伝え、12日前に屋久島空港から飛び立ちました。
ふたたびそこに降り立った私は、生きて帰って来られた喜びを噛みしめていたのです。
冗談じゃ無く(笑)

つづく、、、、、
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本日から28日まで、京都に行って来ます。

ヴィッパッサナー瞑想会に参加してきます。

ご存知の方も多いと思いますが、期間中は他者とのコミュニケーションを一切行わず、一日中座って瞑想するという、日常と切り離された時空に入ります。

この会に参加した知人は数多く居ます、そこで何を感じるかはそれぞれだと思いますので、必要な準備だけして、あとはお任せしたいと思っています。

私はつい最近まで瞑想に興味が無かったのですが、いろいろな気づきを経て、この身体とこの人生の経験から来る習慣が、おそろしく強靭な幻想を造り出している事を知り、それをちゃんと見つめるには「瞑想」が効果的だという、内なる声にしたがって瞑想を始めることにしました。

どうせやるのであれば、伝統と体験に裏打ちされた、しっかりとした体系を携えた瞑想を最初に学びたいと思いました。

そう思っていた矢先、以前からおつきあいがあった作家の方がヴィッパッサナー瞑想に参加した体験記を送って下さいました。

水のようにスムーズな流れを感じ、さっそく教会に参加申し込みをしました。

妻もとても喜んでくれました。

29日に屋久島に戻る予定です、それまではこのブログもお休みします。

11月30日は私の47歳になる誕生日です、来年は寅年で、12×4=48のとしおとこです。

人生の折り返し地点を過ぎ、これからいままでと違う流れがはじまるように感じています。

自分の中に広がる宇宙を見つめて来たいと思っております。

いつもいらして下さってありがとうございます。

いってきます。
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秋になってから、家の周りには沢山のクモの巣がかかりだした。

街灯の周りや便所の周りに多いのは、そこに小さな虫が集まるからだ。

毎朝破れた巣を補修する姿は、クモが円を描き踊っているように見えて

なんだか微笑ましい。

美しい幾何学を描き、でも、それぞれが違うかたちを編んでいる。

よく観察すると、クモは自分の身体の周りに感覚器官を広げているんだと分かる。

虫が掛かった振動、風の動き、たぶんかなりの情報を、巣の一本一本の糸から

読み取っているのが分かる。

クモの巣はインターネットに例えられるが、それは大げさな表現でもないかも。

じっとしていても、世界の情報が集まってくる。

意識が広がった世界を、生かす捨てるも、観察する本人に委ねられている。

街灯の周りに何十のある巣を見上げていると、夜空の星や星雲のように見えてくる。

互いに密接しながら、決して重なり合わないバランスで、美しいハーモニーを奏でている。

自然の中の生命は、本当にいろいろな事を表しているのだなぁ〜。
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ひとそれぞれが見ているそれぞれの宇宙。

同じ体験をしているように見えても、ひとによって全く違う体験になる。

新しい生命の受胎は、新しい宇宙が出来る先触れの合図。

産道を通り、次元を超えて現れた生命は、宇宙に第一声を放つ。

だいたい「あ〜っ」と言う(笑)

付けられた名前はその宇宙の名前。

たったひとつの宇宙の名前。

他と比べようが無い、ひとつの宇宙の誕生。

そんなもの凄い事を自分の身体の中でやってしまう

おんなのひとは、すげ〜な〜ってしみじみと おもふ。
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知り合いのアーティストのHPを覗いたら、彼女がブログに書いていた言葉。

「真面目に自由になる」

わたしは ハッとして、自分のロゴスとは違う新鮮なものを受け取った。

「自由」とは何なんだろう?

少し振り返っても、その時々でわたしにとっての「自由」も変わって来たように感じる。

自由という言葉は象徴的であると感じるが、だからこそ、その人が見ている「宇宙」を表す言葉かも知れない。

あなたは何が「自由」だと感じますか?

たくさんの「自由」を見てみたいと思いました。






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屋久島で過ごす時間はゆっくりとしていて、

時間や曜日や日にちを意識しなければ、すぐに分からなくなってしまう。

このブログも毎日更新しているので、何日という感覚ではないし

ゴミを出す日が決まっていなかったら、曜日など無意味な決めごとなのだ。

ただゆっくりと自然は変わって行く。

毎朝目が覚めたとき、私は自分が「昨日までの続き」を続けるために

いろんな事を思い出し、自分の人生の設定を確認し、動き出す。

もしこれが「やらなければいけないこと」に囲まれていたり、

「義務」や「○○するべき」を意識するような自分であったなら、

ここに居る感覚も違ってくるのだろう。

人はそう在りたいと思うと、

今すぐにそう在らねばならないと思ってしまいがちだけど、

変化はいつもゆっくりとしか進んでいかないので

自然の速度に身を任せて、

安心しているのが一番だということが

ようやく分かってきた。

そして、どこに居ようが

自分が見ている宇宙の中心は

自分でしかないという本当の意味が

分かってきた。
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正しく強く生きることは

銀河系を自らの中に意識して

これに応じて行くことである
 
宮沢賢治
  


雨上がりの夜空を見上げていた。

東の空にオリオンが輝き、うすぼんやりと天の川が横たわっていた。

しばらく見ていたら、急に不思議な感覚に切り替わっていた。

宇宙を見上げている私を、はるか彼方の宇宙球の縁から

私が見下ろしているのだ。

150億年前に始まったとされる宇宙の

始まったとされる場所から

150億年後のここを見ている私。

その時に、宇宙は私の外側にあるのでは無く

私の身体の内側にあるような不思議な感覚になる。

急に「地球暦/HELIO COMPASS」の杉山開知と宮沢賢治の姿が浮かんだ。

かいちにそれをメールする。

彼は今、来年のHELIO COMPASSの構想を独りで組み立てている最中だった。

HELIO COMPASSは、太陽系の各惑星の位置を表す暦で

暦と呼ぶよりも、宇宙船地球号の航海地図のようなもの

HELIO COMPASSの革新的存在が、これまでよりもはっきりと確認出来た。

私は長年、彼の作品に絵を添えている。

その出会いに、途方も無い意味を見つけた夜だった。

宮沢賢治にはメールのしようが無いので、彼の言葉を添える




新たな時代は、世界が一つの意識になり。

生き物となる方向にある。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。宮沢賢治





絵の題名

「わたしと虹はまったく同じものです」
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昨日は一日中どしゃぶりだった。

屋久島は「ひと月に35日雨が降る」と言われたのはずいぶん昔の事らしく
私たちが移住してからそんな風には感じた事が無い。

小雨なら良くあるが、本格的な大雨だと外に出るのもままならなく
私は午後いっぱい、絵を描いたり庭の様子を見ていた。

黒雲が太陽光線にシャドーをかけているので、夜明けか夕暮れのような色になっている。
朝や夜との違いは、太陽の角度で、赤っぽいのでは無く、全体がブルーグレーにちょっと黄色いフィルターを掛けたような、異様な色彩になっている。
異次元空間に迷い込んだような、夢の世界みたいな不思議な気分。

皆既日蝕の色を思い出した。
あの日も雲空だったから、太陽そのものは見えなかったが、日蝕の数分間の異界体験は、大げさに言えばその後の私の全行動を変えてしまった。

別次元世界をアカラサマに見たような、もう言い逃れ出来ないような、そんな気分だった。

最近の屋久島は普段は見られないトカラ列島がくっきり見えたり、鹿児島本島が見えたり、なんだか異次元っぽい不思議な光景が繰り広げられている。

「見えなかったものが見える」ってけっこうドキドキしますね.

まだ屋久島初心者マークが外せないけど、何年も住んでいる人たちはこういうのも普通の感覚なのでしょうか?
ちと知りたい。

*雨上がりには虹がよく似合うという絵です。。。
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昨日カメラの話しを書きましたが、
写真のようなわずかな違いの面白さに比べ、絵の表現の違いほど「その人」が出るものも無いと思います。

以前静岡にアトリエを構えていたころ「デッサン会」を主催していました。
参加者が交互にモデルになって15分間でクロッキーをする会です。

そこでは「見る・見られる」という関係性が明確になる体験。
同じモデルを描きながら、それぞれの表現の違いに面白さ大爆発でした。

いま思えば、あのデッサン会で培われた「ものの見方」が、絵だけでは無く、日常や人生の見方まで良い影響をしてくれているのを感じます。

参加してくれていた方々の「いま」を覗いてみたくなりました。


なぜ表現するのだろう?と考える事がありますが
すぐに「それしかないから」と応えがあります。

この世界のあるものは、全て愛の表現でしかなく、それ以外は何も無いからです。
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いっちゃんが新しいデジカメを買ったので、夕べは初撮影で盛り上がった。

カメラ自体が高機能なので、何を撮っても味わい深い写真になる。

見慣れた室内や私やいっちゃんの「一瞬」が切り取られた画面を見ていると

「私」の眼に映っているものとカメラのモニタに写っているものが違う。

いっちゃんが撮った写真を見ても、私が見ているものと違う。

このかすかな違いが、それぞれの個の違いなのかも知れない。

今まで写真にはあまり興味が無かったが、撮る人によって違う世界を写せるカメラは、ある面で「それぞれの世界」を共有出来る道具なのかも。

絵のように大きな違いでは無く、かすかな違いに、他人の宇宙のリアルさを知る。

一瞬一瞬に切り取られた世界は、永遠にいまここの風景を映し出している。