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これはまだ自分の中で編集しきれて無いというか、
まだ分かりやすく説明出来ない感覚なのですが、

GW中にいつもより自然や緑に触れる機会が多いと思いますので、
もし何かピンと来たら試していただきたい事です。

先日の日記にも書きましたが、「観るものは 観られるもの」という
別の視座で世界を見る「遊び」です。

樹を見ているあなた。あなたを見ている樹。
その風景を見ている空。草原。空気。たくさんの虫や生き物。人々。

それら全てを意識的に感じて見て下さい。

あまり感情的な部分は使わない方が繋がりやすいと思います。
「樹に愛されている」とか「癒してくれている」とか
そういうストーリーでは無く、

また、あまり従来の科学的、スピリチャル的な感覚に囚われてしまうのも、
フルッシュな感覚の妨げになります。

それらは「過去」の遺物でしかありません。

あなたが「いま感じる」事が、宇宙の最先端なのです。

ただ「在る」ものとして、その景色を眺めている自分。
自分を含んだその景色いっぱいに広がっている意識で在る自分。

そういう事をしてみて、何か感じる事があったら、それを大切に持ち帰って下さい。

ボクはそれが本当の「祈り」だと思っています。

祈りとは「行為」では無く「在りかた」です。

あなたがいま、全てとひとつになって居る時に、
あなたはそのまま「愛と平和」なのです。

あなたのその意識は、自然に溢れ出して、周りの環境を「愛と平和」に塗り替えます。

現状への違和感から発動する思いを祈りだとすると、それは新たな注文になりかねません。
いまへの感謝、これが真の「祈り」だと感じています。

自然の中だけで無く、都会の雑踏や満員電車の中に居る時。

愛し合っている時、ののしり合っているとき。

どんな時でも、それを意識する「遊び」を試して見て下さい。

もしそこで何か、今まで感じた事が無いけれど、何か懐かしい部分に触れたら、
それが「本当のあなた」の気配だと思います。

「本当のあなた」を「ありのままのあなた」と言います。
「ありのまま」という言葉の「あり」はこの事です。
全ての人が持っているけども、でも、忘れてしまっている感覚。

それを「神」と呼んだり「愛」とよんだり、ボクは「ぽめろん」と言います。

それが分かると大抵こう言います。
「いままで私が分かってたと思ってた事は、全然分かっていなかったんだ」

そこから反転して、その感覚で生き始めます。

反転とは、今あることの「反対」に裏返る事じゃ無くって、
「これまで」も「これから」も含んだ(つまり『過去』も『未来』も)「いま」に
再び立つ事です。

ですから、反対勢力やカウンターには答えはありません。

両方を含み、別の次元の視座から全体を一望する事です。

すてきなGWをお過ごしくださいませませ。
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私たちはどこか旅行をして、美しい景色を見て来たと言いますが

美しい景色に見られて来た、とは言いません。

でも、深く見つめてみれば、あなたが「見る」という行為をしている時

あなたはその風景の外側には居ません。

あなたはその風景の中に居て、風景の一部になっているのです。

景色や風景ばかりではありません。

なにかのものごとを評する場合でも、あなたはその外側に居るのでは無く

そのものごとの内側、すなわち「あなた自身の事を評している」という事を

忘れてはいけません。

何かを感じるとき、あなたはその「何か」とひとつです。

誰かと話す時、あなたはその人とひとつです。

この事実を意識する事で、私たちの視座は大きく広がるのです。

「観るものは 観られるもの」

あなたがじっと見つめる花に、あなたは見られています。

そのとき、花とあなたは区別がありません。

これが「生命を観る」とボクが言っている事の真意です。

もちろん「見る」と「観る」「聞く」と「聴く」「感じる」「触れる」など

あなたが、あなた以外のものに接触するとき

それは全部このように言えます。

私たちが生まれて来て、一瞬でも「ひとり」だった事は無く

一瞬でも「ひとつ」じゃ無かった事は無いのです。

死者を思うとき、その人はあなたの側に居ます。

幸せを思うとき、幸せはあなたの隣にあります。

このような事を深く理解したら、あなたの日常は一変します。

それは「変わった」というよりも、もともと在ったものを「思い出した」と言います。

しかし、これは頭で理解する事では無く、あなたは「体験」を通して、沸き上がる歓喜にともなった「納得」を、自らの内部から発露させるのです。

これから始める「生命を描くデッサン会」は、これを体験するきっかけです。
「生命を描くデッサン会」


これまで述べた事を、心の奥底から理解してしまったら

もう二度と元の「ひとり」には戻れなくなるのです。

しかし、長年の習慣である「ひとり」を払拭するには、根気と日々の初心が大切です。

「毎日」「いつも」という習慣を手にしたら、あとは自動的にそうなります。

なにごとも「トラの巻」や「秘法」など無く、すぐにぽ~んと飛び越えさせてくれる魔法など無く、外からの刺激でそうなるわけでは無く、

あなたの意識が「ひとつ」に重なるのを待たなくてはいけません。

あなたの意識が「ひとつ」になれば、あなたが何を見ても、何を考えても、誰と居ても「ひとつ」になるのです。

観るものは 観られるもの

暴れまくっていたあなたの自我(エゴ)が、ようやくあなたの個性に収まるのです。

あんまり素晴らしいデッサン会になりそうなので(笑)

これは全国で開催したいと思いました。

約2時間の時間帯で、「生命を観る」とはどういう事なのかを話し

描き

それをみんなで見て、感じた事を話し合い

また描き

次にもっと進んだ「発見」を話し合う。

これで2時間位を考えています。

6月に松本で「かおの絵」の個展と注文会の機会がありますが

すこし予定を変えてもこのデッサン会をしたいと思いました。

ご興味ある方は、5月5日に自宅(atelier23)で始まる「デッサン会」にいらして下さい。

もし「ウチでもお願い」と思われる方はご一報下さい。

会場のこと等、いろいろ一緒に考えて進めて行きたいと思います。

日本全国どこにでも行きます。


「かおの絵」はコチラ
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観るものは 観られるもの
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生命を描くデッサン会



日時 5月5日(木) 午後2時から4時まで。

場所 東京都府中市住吉町2-30-31府中住吉住宅4号棟401号室
   電話 042(306)5979
コチラでMapionが表示されます。

Mapionの表示は2号棟になっていますが、ウチは4号棟です。
中河原公園を通る道順が気持ち良いですよ。

京王線「中河原駅」から徒歩8分
「中河原」には急行や準急行は止まりません、ご注意下さい。


参加費 ¥1,000

持ち物 スケッチ帳と筆記具(なんでもかまいません)

参加申し込みは必要ありません、直接いらして下さい。
*中学生以上の方を対象にしています。


以前一度提案したのですが、この震災で延期していました。
第一回目は、ボクの自宅を会場にいたします。
*今後、公共の会場を使用する場合は参加費が¥1,500になります。


生命を描く

「生命を観る」「ぽめろんを観る」
それは具体的にどう「観る」のか?

という「見方」をデッサン(クロッキー)を通して気づく事、この会の趣向です。
絵が好きじゃ無くても、下手でも、全然かまいません。
むしろ、そういう方こそ、「絵を描く」という行為の本質性に迫り安いのです。

絵が上手くなる為の会ではありません。
対象の表面を描きながら、そのものの本質を観る。
頭で理解するというよりは、全身で観る。心で聞く。

そういう感性が自分に備わっているのを発見して下さい。

ボクも一緒に描きながら、言葉にはしきれない
それが伝わる様に表現して行きたいと思っております。

興味はあるけどGWでご予定の詰まって来られない方も、
このデッサン会は定期的に開催しますので、次回にご参加下さい。



「かおの絵」はコチラ
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原始の力が盛り上がっています。














Actio5月号

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「かおの絵」はコチラ
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反転


「反転」とは、

裏表がひっくり返る事じゃ無く

同じ景色を見ていても

その意味が変わる事です。

これを頭でイメージする事は出来なくて

ただ「感じる」しか、出来ないのです。









「かおの絵」はコチラ!
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こおうする













「かおの絵」はコチラ
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ティク・ナット・ハン著「微笑を生きる」春秋社より 


長いあいだ瞑想したあと、
私はこのような詩を書きました。

この詩のなかには三人の人物が登場します。
十二歳の少女と、海賊と、私です。

私たち三人がおたがいを見たときに、
他人と自分を区別できるでしょうか。

この詩に「私を本当の名前で呼んでください」
という題をつけました。私にはたくさんの名前が
あるからです。

私は自分の持っているたくさんの名前のひとつで
呼ばれたら、「はい」と答えざるをえません。




私が明日発つと言わないで
なぜって いま もうすでにここに着いているから

深く見つめてごらんなさい 私はいつもここにいる
春の小枝の芽になって
新しい巣で囀(さえず)りはじめた
まだ翼の生え揃わない小鳥
花のなかをうごめく青虫
そして石のなかに隠れた宝石となって

私はいまでもここにいる
笑ったり泣いたり
恐れたり喜んだりするために
私の心臓の鼓動は
生きてあるすべてのものの
生と死を刻んでいる

私は川面で変身するかげろう
そして春になると
かげろうを食べにくる小鳥

私は透きとおった池で嬉しそうに泳ぐ蛙
そしてしずかに忍び寄り 蛙をひと飲みにする草蛇

私はウガンダの骨と皮になった子ども
私の脚は細い竹のよう
そして私は武器商人 ウガンダに死の武器を売りに行く

私は十二歳の少女
小さな船の難民で
海賊に襲われて
海に身を投げた少女
そして私は海賊で
まだよく見ることも知らぬ者

私はこの両腕に大いなる力を持つ権力者
そして私は彼の「血の負債」を払うべく
強制収用所でしずかに死んでゆく者

私の喜びは春のよう
とても温かくて
生きとし生けるもののいのちを花ひらかせる

私の苦しみは涙の川のよう
溢れるように湧いては流れ
四つの海を満たしている

私を本当の名前で呼んでください
すべての叫びとすべての笑声が
同時にこの耳にとどくように
喜びと悲しみが
ひとつのすがたでこの瞳に映るように

私を本当の名前で呼んでください
私が目ざめ
こころの扉のその奥の
慈悲の扉がひらかれるように
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先ほど「かおの絵」のご注文の方からお電話をいただきました。

最近『かおの絵』の記事(話題)が出ていないので、もしかしたら震災後に方向転換されたのかと思って!

やってます!!

すいません。気がつきませんでした。
ありがとうございます。


震災後は「とにかく心が平静になるような絵を」という思いで、毎日描き連ねて参りました。

まだ終息してはいませんし、これから本当の意味で何があっても不思議じゃない世の中に突入したと感じていますが、同時に「何があっても大丈夫」という思いも定まりました。



絵を描くという事、アートとは?



生きて行くというのは、食べたり眠る場所があると言うだけで無く、
笑ったり感動したり、触れ合ったり抱きしめ合ったり
という事だと思っています。



さっき家の前を流れる多摩川の河川機を散歩して来ました。



春になって新芽が伸びて来て、
毎日どんどん緑の色面が増えて行っています。



草や樹の、これはどんな名前でどんな性質なのか?という事よりも
ボクは「毎日変化する生命力の表れ」として
植物達の活き活きとした営みがありがたくて仕方ありません。



土に生える樹や草花だけじゃなく、部屋の中の小さな鉢植えの花だって
毎日少しづつ変化していて、けっしてとどまる事がありません。

振り返って、私たちも同じ自然の一部だと気づきます。




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ボクにとっては「絵を描く」という行為は、まったくこれと同じなんです。
変化しつづける生命力の、永遠の一瞬を描く。。。


それをとても意識的に表現するのが「かおの絵」です。

多摩川の散歩がてら、ぜひウチにいらして下さい。

「かおの絵」詳細はコチラ

震災後、何を見ても愛おしく、何を見ても感慨深くなった。。とおっしゃる方がたくさんいますね。
いま起きている事をどうとらえるのか?

それは、私たちひとりひとりの「思い」にかかっているように感じています。





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呼吸
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