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ボクの幼少期、TVではアメリカの「西部劇」が人気のあるドラマで、よく「西部劇ゴッコ」をして遊んでいました。

劇中では開拓者である西洋人と、原住民の人たちの戦いが良く描かれていて、
原住民は野蛮で残酷で古くからの言い伝えに固執する呪術的な未開人という設定が多かったのです。

白人ミナ ウソツキ  インディアン ウソ ツカナイ

たどたどしい英語(日本語)でそう話すインディアンの台詞を真似して、ボクらは敵味方に別れて「ゴッコ」に夢中でした。
ですから「インディアン ウソ ツカナイ」というセリフは、ずっと自分の心の中に、大きな(?)として残っていたのです。


白人とは、彼らの住む大陸(現アメリカ合衆国)に押し寄せて来た西洋人を指す言葉です。
もともとずっと住んでいたネイティブ(地元民)の大地を「発見した」と言い、「開拓」という旗印を掲げ、無理矢理彼らの土地と生活を奪って行きました。

それが現在のアメリカだし、このような事は今でも世界中で現在進行形です。
世界中に「ネイティブ」と呼ばれる「少数民族」が居て、同じ様な略奪と搾取を受けて来た歴史が、近代の姿だと言えます。

白人とは誰でしょう?
今ではもう「アングロサクソン」だけじゃ無く、騙して有利に交渉することを「ビジネス」と呼ぶ、世界中の「先進国」の住民の事なのではないでしょうか。

「騙す」ことを「ウソを付く」とも言いますが、はっきり分かるウソを付く場合の他に、「分からない様にウソを付く」事の方が多く、実際その「ウソ」は、「頭が良い」と見なされる事もあります。

学校でも職場でも教えられるのは「いかに『それとなく欺くか』というテクニック」
「上手に付いたウソは、ウソじゃ無い」という認識。
そして「上手なウソ」は人生の成功の鍵になっています。

という訳で、「白人」は、人種や宗教や文化や国籍では無く「ウソを平気で付く人」の総称になったのだと思います。

同じく「ネイティブ」も、人種や宗教や文化や国籍では無く「ウソを付かない人」の総称なのでは無いか!と閃いた時に、なにかパァ〜ッ!と視界が開けた感覚が広がりました。

ネイティブとは「正直」である。

現在、世界中で「いままでのやり方」が立ち行かなくなっています。
これまでのツケが回って来たのです。

経済も宗教も常識も道徳も、洗い直し見直さなければ、自分たちの地球が住む事の出来ない星になってしまいそうです。

これまでの、

自分が『ウソを付いていない』と見せる為に全精力を傾けて来た時代の終焉。
自分が『常識的だ』と思われる為に全精力を傾けて来た時代の終焉。
自分が「わりとイイやつだ」と感じさせる為に全精力を傾けて来た時代の終焉。
「ウソを付いている」のを見透かされないようにしてきた努力の行き止まり。
「ウソを付いて」も、それが常識の範囲内だと了解を取る根回し。
「ウソ」を付いても、それが誰かの為になっていると思い込み、思い込ませる態度。

それらが通用しなくなってくると思います。

逆に、

自分の本音を正直に話したり、伝えたり、書いたりする事への歓迎意識。
その人ありのままの生き方を受け入れる生活環境。
自分にも他者にも「ウソを付かない」生き方。
「根っ子に繋がる生き方」
「根っ子」とは、自然であり、生命力であり、肉体であり、慈愛だと思います。

そういうった「ネイティブたち」が守り続けて来た生き方を学び、未来に繋げて行く。

辺りを見回せば、本当に沢山のネイティブたちがいる事に気づきました。
人種や文化では無く「正直なひとたち」です。

追いつめられた所から、急に反転した心持ちです。

追いつめられたからこそ、私たちひとりひとりの中に眠っていた「ネイティブ=正直」が、顔をもたげ、姿を現したように思います。

私たちは例外無く、古代から続くネイティブの末裔です。
この肉体に眠っていたネイティブの精神が眠りから目を覚まそうとしているのです。
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生命は刻々と姿や意味を変えて行きます。

同じ様に「私の正直」も、刻々と変わって行きます。

「いまわたしは正直なのか?」という視座をいつも携える事。

いつも「まだ何も知らない者」でいる事。

それは個人も場合でも、大勢の場合でも同じ事です。

自己賞賛や満足の感覚に浸る時。

その心は「過去」に置き去りにされています。

「正直」は果てしなく、決して到達する事の無い「問い」です。

いつも「いま初めて」の心で臨み「これで最期」の気持ちを持つ。

今日生まれたかの様に観て、

今日死ぬかのように過ごす。

それが「生命」である「わたし」のただ一つの道です。

わたしは毎朝、ここに戻ります。

わたしは毎夜、ここに戻ります。


祈りのことば
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「考えるな 感じろ」という言葉を聞く度にボクは

これは「よ~く考えよう」と言っているんだな。と思います。

この「考えるな」というのは「ジャッジするな」という事に聞こえます。

「考える」のも「感じる」のもジャッジしない。

本来はそういう事をひっくるめての

「直ぐに良い悪いを判断するな 真直ぐに心の眼で観ろ」ですね。

人は思考する生き物として、この世界の事をちゃんと考えて

生きなくてはもったいない。

ちゃんと考えて、ちゃんと知る。

それをしっかりとやった先にある思考や感性は、

いつも私たちの可能性を切り開いて来たのですから。
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「わたしのわたし」に出会った時

「わたし」はどこにも在りませんでした。

ぜんぶ「わたし」だったからです。










ぽめろんとは、ボクが屋久島に住んでいる時に遭遇した
圧倒的な生命力に付けた造語です。

それは確かに生命力としか言えないものなんですが、
「生命力」という言葉から伝わるイメージを遥かに超えたものでした。

神と悪魔 上昇と下降 歓びと悲しみ 生と死 生育と腐敗 幸と不幸 

プラスとマイナス 膨張と凝固 吸うと吐く 求心と遠心 善と悪 etc...

それらの性質を同時に併せ持つ、激しく静かなエネルギーです。
それが空間や肉体や全てのものの原因だと知ったのです。

ぽめろんは空間に充満しています。
ぽめろんが無い所は無く、ぽめろんが強い場所もありません。
全て同じ力がそれぞれに応じて姿を取りながら、
万華鏡の様に刻々と色が変わっています。

私たちはその原因を見る事は稀で、いつも結果を知らされています。
しかし、自分たち自体がぽめろんなので、本当に原因を知りたければ
自分の内部に入って行くしか出来ません。

鏡に映った自分の身体じゃ無く、皮膚を透明にスケルトンにして
あなたの身体の内側にある、血管や筋肉や内蔵の動きをイメージした時に
あなたの「生命」の身体を見る事が出来ます。

でもそんな気味悪い身体なんか自分じゃ無い!
そんな身体だったら誰なんだか分かりはしないし。

そうですね。
それが「あなたの生命の身体」なのだから。

その時に私はもはや私では無く、ただの生命です。
私たち全員が、その身体をしています。

生命力は 優しく残酷で 高貴で低俗なものだと思います。
それを本当に受け入れる時に

私たちは生命に合わさるのだと思います。

長年慣れ親しんで来た「常識」という皮膚を脱ぎ捨てて
生命そのものを直視する瞬間が
私たち全員に迫っているように感じています。
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宇宙の果てで見つけたもの。

それは「わたしのわたし」でした。
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みんな自分の「かお」を探して彷徨っています。

「あなた」という「わたし」を見つける旅。
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「オーラを感じる」なんて言葉が日常会話になるほど、いまではその人が持っている気配を感じる感性が広まっているように思います。

実際に見える人も沢山居るようで、ネットで検索すれば『オーラの見方』なんてのが沢山並びます。

ちょっとしたコツを掴めば誰でも見える様になるみたいです。

ボクの感覚では(オーラ)=(生命力)=(ぽめろんの視覚化)です。

しかし「スプーン曲げ」と同じ様に「実際何に使えるの?」という疑問はあります。

ボクは屋久島での生活で「強烈な生命力」に触れてからというもの、その感覚が鋭くなっているようです。

ラジオのチューナーをいじる様に「眼」の焦点を少し変えるだけで、空間に充満する生命力を目視出来る様になりました。

しかし、それが何に使えるの?という疑問はずっとあり、あまり重要視はして来ませんでした。

子供の頃はもっとハッキリ見えていたので、母に眼科に連れて行かれて診察してもらいましたが、

「この子は神経質だ」という診断結果と共に帰されました。

ボクは「ただ見えているだけ」で、それを何かの判断に使ったりするのを直観的に避けています。

未知の領域のものを既存の価値観で計ると言う事は、すこし勿体ないからです。

なんでまたこういういかがわしいトンデモ系な「オーラが見える」を話すのかというと(笑)

「いのちをえがくワークショップ」に参加した人たちから、その発露を沢山感じるからなのです。

WSの画材は自由で、クレヨンや色鉛筆を持参される方が多いのですが、ある会場で急に「色を使って相手を表現する」という現象が起こり始めました。

参加者が向き合って相手の顔を描くのですが、「顔」を描くと言うよりも、相手の印象を「色」で表現するのです。

またある会場ではその人を表す「幾何学」や「図形」を絵と一緒に描き込む方が現れました。

ボクはそんなアイディアはな~んにも言ってないにも関わらず。

これは「女性」から始まりました。

その絵を見せ合った次の回には、多くの方がその「見方」を自然に習得して行ったのです。

ボクは逆にこの時に「女性が見てる世界は男性とは違うんじゃないか?」と思いました。

女性は子供の頃から「絵」にそういう感性のものを沢山表現しているからです。

男性は「色」というよりも「形」に興味を持つ傾向が強いように思います。

ボクの個人的な解釈ですが「オーラ」と呼んでいるものは、万物に浸透している「生命力」が、

人や生き物の周りには濃厚に凝縮して見えるのをそう呼んでいるように思います。

ですから「人の周りにオーラが見える」というよりも「オーラの中に人が居る」という言い方がピッタリします。

今もって「何に使えるのか?」は分かりませんが、ひとつ言える事は「生命を感じ易く」なるという事です。

生命に関心が強まり、リスペクトの精神が強くなります。

これは科学的な「生命論」や「生命科学」とは違う尺度の「感力」の高まりです。

「知」ではなく「体温」のような、とても柔らかな優しい気持ちを育む「目」です。

なるほど「女性」ってそういう存在だよな!って思います。

ボクはみんながオーラを見るような社会になったら面白いな、と思います。

それは世間の眼差しが「優しくなる」のと同じ意味だと思うからです。

ごくごく普通に、特別じゃなく、それを感じ合っているような世界になったら素晴らしいな。

今までの「知性」や「思考」が及ばないものが、もっともっと広がっていくとイイな。

みなさん「絵を描く」ってステキですよ!




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WSに参加して下さった方が描いてくれたボクの絵です。
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 な〜〜〜んちゃっておじさん!!   (古いでした!)
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今日はとても濃厚で楽しかった~

皆さんありがとうございました‼

また会いましょうね!

スピカさんありがとね~
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以前友人が「すべての人は矛盾を持っている」というような事を書いていて、
まったくその通りだと思いました。

私たちは皆、自分の内側で戦いを繰り広げている様な生き物です。

どこかに強力なカリスマが居れば「そうだ!そうだ!」とその事実を忘れられますが
(そのカリスマにせよ、矛盾を抱えています)

しばらくすればまた元の混乱に舞い戻って行くのです。

自分の中の「正義」と「悪」の戦い。

その戦いを現実の世界に投影しているのかも知れません。

「すべての人は矛盾を持っている」

その事実を見つめること、自分も他者も「矛盾」なのだと認めること。

理想の世界をイメージするのと同じ位、この「きもち」は大切なものだと思っています。

「生きたくない」人などどこにも居ないから、「生きる」を認め合うこと。

そこから生じる「混沌」は、けっこう美しい世界のように思えます。

様々な色が折り重なりながら、見たこともない景色が浮かんで来そうです。

世界は生命に溢れていて、私たちはその「生命の海」に浸かっていて。

その「生命の海」の別名が「矛盾」なのかも知れません。
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