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如来のまなざし

屋久島に来てから、それは私にとって初めての経験なのだが(いっちゃんは経験済みだと)
目の前にある自然の生き物や風景が急に「別の見え方」に切り替わるようになる瞬間がある。
岩の上に散らばる落ち葉をぼんやり眺めていると、その葉の黄、オレンジ、緑、赤、茶などの色々が「ありえない色」に見えてくる。
視線を転じて川面を見ると、キラキラと波紋を形取る光が「ありえないヒカリのカタチ」に見えてくる。
この世界は決して「普通」では無く、全て「ありえない」もので構成されている事に気づいてくる。

その「ありえない」以前の私が自然をどのように見ていたかというと、例えばNHKハイビジョンのドキュメンタリーをまったりと観ているような感覚だった。
葉は葉であり、川は川だった。
それら全てが自然に馴染み全体が調和している様な、当たり前の自然だった。

一番最初にその見え方になってしまったのは、中間の小さな浜に咲くハマエンドウという、どこにでもある花と葉の『イキオイ』に気づいた時。
その姿かたち色が、「まったくこれは自分である」と理屈無く感じた時だ。
花の色やかたち、そして今まさに太陽のヒカリを全身に浴びて息づいている姿が。
もはや自分自身としか言いようがなかった。

それから何度かかなり自由にそのスイッチを使える様になり、今では車や原付を運転しながらその「まなざし」で世界を見ているが、少し危ないのでこれからは控えようと思っている。
それほど頭がキマった状態になっている。
その目の時の私は見えるものと自分自身がひとつである事が実感出来ている時間であり、これが菩薩のまなざしというものなのかと思っている。
菩薩という仏教的な視座に入ってしまうが、どう呼んでもいい。
この世界の別の見方。
しかしそれは「別の」と「こちら側」から言っているだけで、その目になっている時は「これが本来の世界なのだ」と解っている訳だが。
今は自由に行き来出来ていて、しかしたまには食い気やエロ気や怒りで我を忘れているとそのまなざしには同調出来ていない。
ましてや都会にいてもその目に持っていけるかとイメージしたら絶対無理なので、これは脆弱な「始まり」に過ぎないと思う。

頭がキマっている状態というと、例えばエクスタシーにイキっぱなしとだという言い方も出来て、「激しく落ち着いている」とも言える。
何で菩薩のまなざしを例に上げたかと言えば、真言密教の教典に「菩薩の心は常に絶頂状態にある」と書かれたものがあり「それは同じだ」と実感出来るからだ。
菩薩の心が板に付いて来たらその視野の先に広がるのは「如来のまなざし」になるだろう。
今はまだ多種多様な菩薩の管理する世界に多様性を観ているが、如来の「ひとつ」のまなざしが分かってくれば多種多様の根っこに繋がる「ひとつ」が実感出来てくるだろう。
菩薩や如来というと仏教臭くなってしまうが、それがシリウスでもオリオンでも、支社長でも会長でも、県でも国でも、何でも良い。
同じ物を見ても全く違う見え方があるという事を。
この世界はバウムクーヘン(年輪)のように数多くの層が渾然一体となって重なって出来ているという事を。
屋久島は私に教えてくれたのだ。
by prema-maaru | 2009-05-16 19:03 | Comments(0)