祈りの月
7月7日は満月で、屋久島では「まんげつ☆たなばた☆まつり」が開催されていた。
野外で周りが山の稜線に囲まれた会場には月が遅めに登った。
月が顔を出したとたんに、それまで暗かった会場の隅々まで柔らかい光が届く。
「月」という星はなんて分かりやすい存在なのかと改めて思った。
急に気分が変わる事は今までも無数にあった事で、ただそれが自発的なものなのか?周りを意識してのことなのか?それが両方の作用によってのことなのか?で意味合が違っては来る。
7月に入った私は急に自分たちの生活を検証するような眼差しに切り替わっている。
そこから見たら今までの3ヶ月はちょい長めの旅行だったのかも知れない。
屋久島では強靭な生活力を携えた人が沢山居て、それぞれが経験から得た独自な哲学を持っている。
自分はというと、感性が強力に前面に出た、生活力に乏しい新参者という所に位置しているようだ。
それはまったく「使えない」ワケであり、これからの態度次第では屋久島で暮らしていくのに落第してしまうような危機感さえ漂わせている。
楽しいだけでは生きていて楽しくないのだ。
田畑をがっちりと守り、自分たち家族の食べるもの位は作れるようになるという私にとって夢の環境に居るのだから、つべこべ言わずにそうしたら良い。
誰にも頼らずに自立した生活というものを、この歳からでも出来ると言う事を証明出来ると思うのだ。
いとつひとつを経験して積み上げていくような遠い道になるのだろうが、本人にやる気がある上では苦労は楽しみになると分かっている。
いつか手に入ると分かっているものに、焦りや祈りは要らない。
さらに、どういう展開になろうがそれが自分にとっては最善の結果の連続だ。
という信念があれば、祈りや願いというものさえ要らないというのが分かる。
祈りや願いというこころの方向付けは、つまりそれが叶うのが当たり前じゃないという本音の上になりたっているので、むしろ望む結果を遠ざけているような事もあるようだ。
すべてのものは表面上は別々の姿をしているが、中から見てみればまったく同じひとつのもので出来ている事が分かったら、祈りは自然に消滅するだろう。
むしろ、あらゆる経験の前に、この「ひとつのもの」をはっきりと見る経験こそが一番大切な事で、これが無ければあらゆる行為が見当違いなものになっても仕方が無いほど。
力まず自然体で求めず、良い事も悪い事も全体の中の波の様なものだと感じられたら、人生が抱える諸問題の内の幾つかは無くなってしまうと思う。
願う前に、祈る前に、どこかで起きている事柄を自分自身のこととしてとらえられたなら、その出来事の本質の中に入って行って、それを自分自身の問題だと本気で考えられたら、願う前に祈る前に、答えは目の前にあるはずなのだ。
だから「祈る前に感謝する」という気持ちになるのが自然なのだ。
そんな事をしばらく私はじっくりと見つめる時間を持たずに遊び回っていたので、やっとじっくりと屋久島に腰を下ろして始めて行くと言う気持ちになったのです。
だからこれは自分自身に言い聞かせる様な文章であり、初心に還る意味でもたびたび読み返してみたいと思っています。
日食はけっこう盛り上がっていますが、私はこんな事を考えているので、日食の欠けて行くのを肉眼で見る事よりも、自分の心の眼で見る事を分かって来たので、私はどんどん冷めているのです。
日食が我々にどういう変化をもたらせてくれるのかを見つめるよりも、この世界を私たちがどんな世界にしたいのかを、はっきりと明確に信じる事が出来なければ、何も変わりない地球次元がそのまま滅びるまで続くと思います。
遠くで起きている悲惨な現実や身の回りの懸念事を同じ視座で見つめられるような自分でありたい。
すべての責任を感じ、全ての歓喜を感じ、他を動かすような解決ではなく、自分自身を見つめる事でそれの応えを行動で現す様な生き方を。
それは今までもずっと心掛けて来た事なんだけど、過去と呼ばれる記憶や未来と呼ばれる予想みたいな幻想次元の話では無く、いまここという真我の真ん中で。
野外で周りが山の稜線に囲まれた会場には月が遅めに登った。
月が顔を出したとたんに、それまで暗かった会場の隅々まで柔らかい光が届く。
「月」という星はなんて分かりやすい存在なのかと改めて思った。
急に気分が変わる事は今までも無数にあった事で、ただそれが自発的なものなのか?周りを意識してのことなのか?それが両方の作用によってのことなのか?で意味合が違っては来る。
7月に入った私は急に自分たちの生活を検証するような眼差しに切り替わっている。
そこから見たら今までの3ヶ月はちょい長めの旅行だったのかも知れない。
屋久島では強靭な生活力を携えた人が沢山居て、それぞれが経験から得た独自な哲学を持っている。
自分はというと、感性が強力に前面に出た、生活力に乏しい新参者という所に位置しているようだ。
それはまったく「使えない」ワケであり、これからの態度次第では屋久島で暮らしていくのに落第してしまうような危機感さえ漂わせている。
楽しいだけでは生きていて楽しくないのだ。
田畑をがっちりと守り、自分たち家族の食べるもの位は作れるようになるという私にとって夢の環境に居るのだから、つべこべ言わずにそうしたら良い。
誰にも頼らずに自立した生活というものを、この歳からでも出来ると言う事を証明出来ると思うのだ。
いとつひとつを経験して積み上げていくような遠い道になるのだろうが、本人にやる気がある上では苦労は楽しみになると分かっている。
いつか手に入ると分かっているものに、焦りや祈りは要らない。
さらに、どういう展開になろうがそれが自分にとっては最善の結果の連続だ。
という信念があれば、祈りや願いというものさえ要らないというのが分かる。
祈りや願いというこころの方向付けは、つまりそれが叶うのが当たり前じゃないという本音の上になりたっているので、むしろ望む結果を遠ざけているような事もあるようだ。
すべてのものは表面上は別々の姿をしているが、中から見てみればまったく同じひとつのもので出来ている事が分かったら、祈りは自然に消滅するだろう。
むしろ、あらゆる経験の前に、この「ひとつのもの」をはっきりと見る経験こそが一番大切な事で、これが無ければあらゆる行為が見当違いなものになっても仕方が無いほど。
力まず自然体で求めず、良い事も悪い事も全体の中の波の様なものだと感じられたら、人生が抱える諸問題の内の幾つかは無くなってしまうと思う。
願う前に、祈る前に、どこかで起きている事柄を自分自身のこととしてとらえられたなら、その出来事の本質の中に入って行って、それを自分自身の問題だと本気で考えられたら、願う前に祈る前に、答えは目の前にあるはずなのだ。
だから「祈る前に感謝する」という気持ちになるのが自然なのだ。
そんな事をしばらく私はじっくりと見つめる時間を持たずに遊び回っていたので、やっとじっくりと屋久島に腰を下ろして始めて行くと言う気持ちになったのです。
だからこれは自分自身に言い聞かせる様な文章であり、初心に還る意味でもたびたび読み返してみたいと思っています。
日食はけっこう盛り上がっていますが、私はこんな事を考えているので、日食の欠けて行くのを肉眼で見る事よりも、自分の心の眼で見る事を分かって来たので、私はどんどん冷めているのです。
日食が我々にどういう変化をもたらせてくれるのかを見つめるよりも、この世界を私たちがどんな世界にしたいのかを、はっきりと明確に信じる事が出来なければ、何も変わりない地球次元がそのまま滅びるまで続くと思います。
遠くで起きている悲惨な現実や身の回りの懸念事を同じ視座で見つめられるような自分でありたい。
すべての責任を感じ、全ての歓喜を感じ、他を動かすような解決ではなく、自分自身を見つめる事でそれの応えを行動で現す様な生き方を。
それは今までもずっと心掛けて来た事なんだけど、過去と呼ばれる記憶や未来と呼ばれる予想みたいな幻想次元の話では無く、いまここという真我の真ん中で。
by prema-maaru
| 2009-07-10 09:47
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