聖なる沈黙

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ヴィッパサナー瞑想の1日目から9日目までは、「聖なる沈黙」が義務付けられている。

これは、他者との会話やジェスチャーや全てのコミュニケーションを一切行わない、あたかも「この空間には自分ひとり」という状況を設定するゲームのようなものだった。

とは言っても、いっぱい人がいるのは明らかなので(笑)極力そう振る舞うのだが、これが私にはとても心地よい時間だった。

都会の満員電車の中等とは違って、ここに「居る」人たちは、皆同じ目的に向かって瞑想をしている「仲間」であり、どんな考え方をしているとか、どんな経験をして来たかなどは問題無く、いまここに置いては、全く同じ「ひとりのひと」だからだ。

そして、そういうものを設定されて気づくのは、本当は世界中の全ての人々は、この状況と同じ人生しか選べないという感覚だった。

その人が何をしていても、それは一見他者にとって悪い行為をしていても、その人を生かしている力の方向は皆「悟り」に向かっているように私には見える。

人は生まれて来て死ぬまで、「悟り」に向かう以外の選択肢が無いように思うのだ。


幸せと悟りは似ているようで違っていて、幸せは他者の不幸の上に成り立つ事が多いが、悟りは他者の幸せがなければ存在出来ない。

私たちは長い幸せ探しの時期の終焉を迎えようとしていて、いままさに「悟り」への扉の前に立っているように思える。

その「悟り」は、到達するようなものでは無く、ずっと自分の中に在ったのだと気づく事だから。

悟りの連鎖が音を立てて近づいている事を、私はこの会場に居た人たちに感じた。


9日目が終わり、聖なる沈黙が解かれる日になった。

会話が始まってすぐに「聖なる時間」が終わった。

私たちは普段、どうでも良いような事を多く話している。
本当に必要な事はそんなには無いものだ。

別に世間話しが悪いと言うわけでも無いが、互いに深い信頼があれば、世間話しは出て来ないものだ。

世間話しや自己紹介等は、根底に「不安」がある場合の、他者にサグリを入れる際のテクニックとして皆使っているのだ。無意識に。。


ずっと長く続いた孤独な時間を払拭するようにおしゃべりに夢中になる皆の中に居ながら、この落差を胸に刻み、これからは「本当の言葉」を話して行こうと思った。

本当の言葉を話していけば、不安も恐怖も生まれない事に気づく。

聖なる沈黙は続いている。
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by prema-maaru | 2009-12-01 05:24