花になる
花になる
里山のふもとの
清流のくぼみで
裏庭のひかげの
誰も見ない場所
工事現場のわき
あの子が通る道
毎朝おはようと
風にゆれる花に
花になる
A1size 594x841mm
*販売済み
東京ノーヴィ・レパートリーシアターの演劇を初めて観た時に、大きな違和感を持った。
舞台の役者が観客では無く、同じく舞台にいる登場人物に話しかけていたのだ。
ボクは演劇をそれほど観た経験は無いが、いまここで、経験した事が無い物事が起きていると思った。
普通は、というか通常は、役者は観客に向けて台詞を話す、聞き取れる様に、意味が通じる様に。
しかしここでは、舞台に上がっている人々が、それぞれの関係において会話している。
観客はそれを現実のものとして傍観していたのだ。
つまりここには「表現する」じゃ無く「理解する」が繰り広げられている。
この式は実際他にほとんど見当たらなくて新しいが、しかしとても太古の香りがする。
後日演出家のアニシモフ氏の講義をあずみちゃんが聞いた時に、彼がそれを「意図している」のだと分かった。
ほとんどの芸術家は「表現」をしているが、この舞台の役者は「どれだけ理解しているか?」に注力していた。
驚きと同時に、この式は自分も大切にしているもので、同じ事を大切にしている友に出逢ったと思った。
多くの芸術家は表現をしてしまっている。
いや、芸術家に限らず、経済や政治や行政も一般の仕事もそれだ。
その「外向き」の観客(対象)を想定した行為は、どこまで行っても平行線を描く。
これは資本主義や個人主義に象徴される、競争原理が支えている。
外向きのこれは、内容よりも見栄えだし、他者がどう自分を見るか?評価するか?が重要な点だ。
それを「内向き」に方向転換して「理解」になると、交わらなかった線は始めから織模様を見せる。
自らが他者を先手で理解し始めたら、自己の表現は突出する事を止め、自己の行為が皆の行為に変わる。
そして皆は気づく「これは私の事だ」と。
皆の為、という犠牲的な行為では無い、むしろ最高の贅沢を理解した、生命力の働きを理解した、とても自然な生き方になる。
ボクはそうして生きている人の代表に天皇皇后を観るし、普通の人のお手本として在るのが分かる。
天皇皇后は日本に君臨しているのでは無く、皆を支えようとしている。
それは行動にはっきり表れている、お二人はずっと「理解しよう」としているのだ。
歴代のいわゆる超一流の人々の多くは、表現では無く理解をしようとしていた。
理解は終着駅が無いので、知れば知る程分からない事が分かってくる。
瞬時に位置を変えるし、今迄の理解を簡単に覆す。
それを諦めないで取り組んだ結果として、素晴らしい表現としてにじみ出ているのだ。
理解が進む時に表れる表現は、知識では無く知性になっている。
知識は限られた人しか使えないが、知性に育ったそれは万人に恵みをもたらす。
極が極まって表現が理解に変換されて行った先に、私達が想像も出来なかった新しい知性が産まれるように思う。
それが100年先でも、1000年先でも良い。
若い世代にはもう「表現」よりも「理解」を選ぶ人が大勢居る。
それが大きな救いだ。
*ボクは『理解』を日本語の『理』を『解する』という意味よりも、英語の「understand」に本来の真意を観ています。
つまりunder(下意識)にstand(立つ)です。
下意識(潜在意識)まで至った見地に立つという意味です。