


御嶽
石垣島には方々に「御嶽/うたき」と呼ばれる聖地があり、オンとも呼ばれている。
大抵は入口にコンクリート製の鳥居があるが、これは明治期に日本政府が神を祀っているなら神社とみなす、という通達で建てられたものらしい。
しかしそもそも御嶽はその集落の先祖を祀っている場所で、その先祖も沖縄本島や八重山の離島から強制移住させられた祖村を想い、その場所を村民の魂の拠り所として存在している事が多い。
いわゆるパワースポットであり、森の中にも街中にも多数あるが、一歩入れば日常の時間を忘れてしまう様な精神的な洗浄感を覚える事が多い。
大抵は古く、朽ちる寸前の御殿の奥に拝所があり、その更に奥に本来の御神体とも言える場所があり、大抵は石が置いてある。
御嶽の入り口に御嶽の名称が記されているだけで、神社や寺にある様な祀られている神仏の名などは無い。
まだ石垣島に通う様になった時分は気が向いたら参拝していたが、今ではもう外から眺めるだけで直視も避ける様になった。
つまりこの聖地はここで生まれ育った方々と祖霊の家であって、他所から来た者がズケズケと足を踏み入れては失礼に当たるという感覚が自然になってきたからだ。
そう感じる様になって来たのは、ある集落の成人式に気軽に参加した時だった。大きな公民館いっぱいに詰め掛けた村民の中で外部の人間はほんの僅かだった。成人者の八重山舞踊や式進行を見ている中で、周りの人達がボクらの存在を全く意識していない事に気が付いた。
無視されているとか怪訝な視線を感じたとかは無い。
しかしまるで、その方達にはボクたちの姿が見えていない様な違和感を覚えた。
普段は何処から来たとか観光か?と気さくに聞いてくる人懐っこさがまるで無い。
大勢の中でボクたちだけが違う空間にいる様だった。
同じ様な感覚は様々な現地の祭りの最中も感じる事がある。
観光客が集まる盛大な祭りも、基本的には自分たちの為に執り行っていて、どう見えるだろうとか感じるだろうとか、こうすれば盛り上がる等と言ったエンターテイメント性が全く無い。
祭りの全ては村民の歓びの為であり島の為である事に終始する。
しかしそれこそがこの島の魅力であり、変化を加えながらも一貫して流れる本流から逸れる事のない伝統なのだと思う。
アマゾン流域やアフリカの部族の祭りも、多分この様な祭りなのだと想像する。
マシマタケシ

書くことで
久しぶりに日記の様に思いを綴り書いていたら、寡黙な空間に青空の切間がのぞいた様に思えました。
これを書いているのは早朝で、東の空が染まり始め、鳥が囀り出し、少しずつ人間の営みの音が方々で聞こえ出した時間です。
ボクが会話や文章で八重山の事を褒め称えると「そんな事は無いよ、深い闇はいっぱいあるよ」と返される事があります。
全く否定は出来なく、人が住む場所にも環境にも行政にも、人の欲や情念が絡む闇は何処にでもあり、それが無い場所など何処にも無いと思います。
幸福度No. 1と国民が自画自賛するフィンランドは、もう一方で自死や精神の病を抱える大国だと聞きます。
行政が生活の細部まで整う事の弊害として、各個人の繋がりや助け合いが無くても生きていける。
それによって極度の孤独感を抱える人が多いのだそうです。
ここ八重山はその逆で、海が荒れて物資が届かなかったり、それこそ台風で何日もインフラが止まったり、市街地以外は過疎なのでお年寄りも子供も一緒になって協力して生きて行かなくてはいけない島です。
人と人の結びつきが非常に強く、その反映としては何処に居ても一人になれない、全部知られてしまっていると言うのはあります。
闇はその延長に枝葉の様に拡がっています。
ただ現在のAI管理の世界の最先端としてあるのがフィンランドだとしたら、八重山は古代から時が止まったままAI的な便利さも加わっている稀有な場所であるかと感じています。
同時に古代から続く闇も相当深いのかも知れません。
よくことわざで「人は自分が映っている鏡を見てそれを世界だと思っている」と言うものがありますが、もう一方の言い方で洞窟の奥深くで松明に照らされた壁に映る自分の影を見て怪物や化け物だと思っていると言うのもあります。
つまりどんな解釈も「その人自身」から外に出る事は難しいと。
光も闇も一緒に抱えて朗らかに生きていきたいものです。
マシマタケシ


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